中国映画

王妃の紋章(2006/中国)

 問:キンキラキンこと『王妃の紋章』の内容を、10字以内で説明せよ。(100点)

 解答例:中国最悪の家族ゲンカ(10字)

…これ以外の適切な解答例を募集中。何かいい例があったら教えてください。

 今やすっかり中国が世界に誇る国際的大導演と化した張藝謀先生は、2002年の『英雄』の大ヒット以来すっかり大作づいている。間に日本との合作『単騎、千里を走る。』は挟んだものの、この路線をひた走っているのは説明するまでもない。
 そして、五輪を3ヵ月後に控えたこの春、何かと中国には風向きが悪い(長くなるから省略)この季節―というかなんで今頃まで公開が延びたんだ?―になってやっとやって来た、イーモウ式武侠映画3部作のしんがり、といってもいいキンキラキン、もとい『王妃の紋章』は、…なーんとなく「大丈夫かよイーモウ、というより中国よぉ」という感想を言うので精いっぱいのような映画であった。

 『夜宴』の時のように原作として露骨にはアピールされていないけど、この映画のモチーフになったのは、中国の近現代演劇の名作といわれる曹禺の代表作『雷雨』である。中国文学や文化を専門的にやっていれば、必ず取り上げられるくらいの名作であり、ワタシも学生時代に抄録を中国語で読んでいたことがある。中華民国初期、欲望と不貞と嫉妬にまみれ、近親憎悪に加えて近親相姦までが発覚し、やがて崩壊していくある富豪一家を巡る物語なのだが、抄録を読むだけで気が滅入り、ここまでドロドロならいつか東海テレビ製作のドロドロ昼ドラでネタにしてくれないかしら、そうすればきっと『真珠夫人』や『牡丹と薔薇』に負けず劣らず大ウケかもよ、なんてことも思ったくらいだ。
 だから、イーモウがこの戯曲をモチーフにして新作映画を作ると聞いたときには、やっぱり気が滅入るんだろうなーと覚悟していたわけである。…案の定、多少気は滅入った。でも、それはある程度の想定内だったので、決してガッカリしたわけではないので誤解なきように。それだけじゃなく、大陸での公開時は『夜宴』と前後したことで両作品が比べられたりしたのだが、出来としては圧倒的にこっちの方が上だったよな。やっぱり、こういう“情念”を描き出せば、イーモウに勝つ中国人監督はいない。 日本人的には『初恋のきた道』のウケがかなりいいので、彼にはどーもそっちの路線に戻ってほしいと思う人もいることはいるんだろうけど(それはほぼ日で連載された件の映画の対談連載を読んでそう感じた次第)、個人的にはイーモウの本質は“情念”であると感じるので、製作バジェットの大小にもかかわらず、こういう激しさを見せてくれると、頭を抱えつつもなぜか安心する。もっとも『初恋』にも激しい情念を感じさせられないというわけじゃないんだが、それ以前にツーイーへのらぶらぶ邪念が…(以下殴られそうなので略)。
 しかし頭を抱えながら安心する映画っていったい何なんだよ!(苦笑)

 確かにね、物語としては非常に毒々しい。ほとんどすべてが黄金で覆われた五代十国時代の後唐の王宮。絶対君主として君臨する国王(ユンファ)と、なぜか彼に殺されかかっている後妻の王妃(コン・リー)、王妃と血のつながらない第1王子祥(リウ・イエ)との不倫、その祥王子は母親に隠れて王宮医の娘(李曼)と恋愛をしている。いまさらドロドロといわなくても、このシチュエーションだけでもうお腹いっぱい。
 ところで、なぜこの一族がいがみ合っているのか理由がハッキリしないという批評がある。いやー、それは簡単じゃないすか?国王は隣国の梁国(だったっけ)から王妃を迎えたけど、もともと梁国は敵国だから、政略結婚して王妃を殺し、完全に隣国を配下に治めたいから、じゃないの?違ってたらスマン。あとは、国でも家でもトップに立つ国王に対して、祥王子はその手から離れたいと願っており、母親孝行の第2王子杰(ジェイ)は窮地に立たされた母親を救いたいということだけを願い、遠ざけられながらもその様子を見ていた第3王子成(チン・ジュンジエ)はみるみる家族不振に陥っていって、重陽節に国をも巻き込んだあのような修羅場が繰り広げられたのである、とワタシは読み取った次第。

 すべてが毒々しくてドロドロしている中、やっぱりジェイの存在感は清涼剤のようでしたねー。とはいっても修羅場ではキンキラキンで血にまみれているので、見てくれは全く清々しくないんだが(苦笑)。中華圏最大のポップスターにして今時の若者であるジェイは、今時の若者にしては親孝行なので個人的にも高感度が高いといっても過言ではないんだが、まさかそのパーソナリティがこのドロドロ映画で活きるとは!“俳優がもともと持つ特性をそのまま役柄に反映させる”のは王家衛の専売特許ではないのか、というよりも、血まみれでいてもどこかイノセント、という役どころがジェイにしか出来ないからというのが正直なところなのか。白い菊マフリャーをなびかせて突撃するクライマックスの場面はホントに彼の独壇場だったしね。
 コン・リー王妃はいうまでもなく当たり役でせう。『夜宴』のガードルード=ツーイー、確実に霞みます。リウイエくんも最近この手の報われない役どころが当たり役になってはきたけど、…おーい、こーゆー役どころだけじゃ淋しいよー(大泣)。
 そして、ハリウッドから貫禄を携えて帰還したユンファ。
 怖い。この怖さは『色、戒』の時のトニーに通じる怖さだ。時々いつもの笑顔が見え隠れするので(あと、瞳がやや銀灰色に見えたときがあったんだが、元からあんな色だっけ?)、ものすごい凄みとかとにかくどす黒いというところまでは完全にはたどり着いていないのだが、今までのユンファのイメージを木っ端微塵にしてくれた。二挺拳銃や決して上手くないカンフーばかりが求められたハリウッドでのステロタイプを完全に振り切った故の到達点なんだろうか。まだまだ現役だと思ったのも確か。亀仙人、どーなることやら。

 スタッフ方面にもコメントを。
 前2作のワダエミさんから代わって、今回の衣装は香港で御馴染のハイ・チョンマン。エミさんの衣装が動を重視しながら静を感じさせる作りとすれば、チョンマンさんのそれは静を重視した出来といったところか。しかしあの女性陣の“寄せてあげる”ドレス…。某胸の大きな方(それをまだ言うか)じゃなくても、着る人を選ぶ服だよな。もっともあれなら多少胸が小さくても見てくれは悪くないんじゃないか、なんてセクハラ意見をまたしてもすみません。
 『十面埋伏』以来のイーモウ作品登板となる、音楽の梅林茂さん。アジア映画のみならず最近ではハリウッドや欧州映画のサントラを手がけているとのことで、すっかり日本が世界に誇る音楽家になってしまいましたねー。パンフには珍しくインタビューが掲載されていて、中華圏での音作りについてじっくりと読ませていただきました。しかし、『花様年華』や『ブルベリ』でも使用された『夢二のテーマ』が、海外の人々に南米の音楽家の作品と思われていたっていう裏話にはやや苦笑。今回はあえてコーラスを多用したそうで、それもあってタン・ドゥンっぽいといわれるのがわかったわ。

 しかし、なんでこの映画は重陽節にあわせて秋に公開されなかったのだろうか…。その方が雰囲気も出たような気がするし、いま公開されることで、中国を巡るネガティブイメージに短絡的に結びつけられてしまうのではないだろうか、と最初は心配した。しかし、実物を見ると、この映画はかの国へのある意味の暗喩がこめられているんじゃないだろうか、と思った。結構露骨に出てるのだけど、よくパスしたなーと思った場面もあったし、いまこの時期だからこそ、それが皮肉に感じるのかな、と思った次第。具体的にはなんだか言わないけどね。

 ラストシーンに訪れる一瞬の沈黙の後、ゆるやかに流れたジェイの『菊花台』。確かに、この物語のラストには挽歌のようなこの曲しかない。そして、初めてジェイの曲を劇場で聴けたことで、ドロドロな思いがすっかり洗い流されたのであった。

原題(英題):満城盡帯黄金甲(Curse of the golden flower)
製作:ビル・コン&チャン・ウェイピン 監督&脚本:チャン・イーモウ 脚本:ウー・ナン&ビエン・ジーホン 撮影:チャオ・シャオティン 音楽:梅林 茂 衣装:ハイ・チョンマン 美術:フオ・ティンシャオ
出演:チョウ・ユンファ コン・リー ジェイ・チョウ リウ・イエ リー・マン チン・ジュンジエ

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ラスト、コーション(2007/アメリカ・台湾・香港・中国)

 もし、王佳芝(湯唯)と易先生(トニー)が違うとき、違う場所、違う立場で出会っていたとしても、二人はきっと愛し合っていただろう。だけどこの映画で語られたような形の愛にはならなかったと思う。
 『ラスト、コーション』を観終わって、まずそんなことを考えた。そして、この映画で最も重要なのは、広く喧伝されてしまっているセックスなんかではなく、時代によって気持ちが引き裂かれてしまった人間の悲劇こそが主題であるとも考えた。

 毎度トニー主演作品を観るたび、どうもうまく感想をまとめ切れなくて、何度も何度も長い感想を書いてしまうのだが、今回は特にまとめるのに苦労している。毎回メインの感想を書いてからあれこれ書いているが、今回のメイン感想は“時代”をキーワードにしてまとめてみたい。なお、あらすじも省略。

 純愛など信じなくなってしまった大人であるワタシにとって、この映画は決して恋愛映画なんかじゃない。官能映画なんてもちろん論外。なぜなら、この映画では恋愛が時代の流れによって潰えてしまうし、その時代が人間を不信に追いやるからだ。さらに、時代は一人の女性をドラマティックに変身させ、破滅に追い込んでいく。李安監督が朝日新聞のインタビューで「ファム・ファタル(運命の女性)の引き裂かれた情欲を通して、ゆがんだ時代と人間像を映した」と語っていたのに、映画を観て大いに納得した。

 映画の前半、広州から疎開して香港大学で学ぶ嶺南大学の学生佳芝が、親友を通じて裕民(王力宏)と出会い、まるで学生演劇の延長のように抗日運動に身を投じていくわけだが、彼らを動かすのは純粋な正義感であり、それを象徴するのは熱血漢のリーダー裕民である。しかし、正義と熱血だけでは漢奸を倒すどころか、世界すら変えられない。香港で易先生の暗殺に失敗し、成り行きで易のボディーガード曹(銭嘉楽)を殺してしまった裕民は後戻りができなくなってしまったわけだが、さらに不幸なことに、その情熱が抗日運動を仕切る呉に利用されてしまい(と思っている)、手を汚しても正義で世界を変えられるという気持ちがより強くなっていく。裕民は佳芝に密かな思いを寄せているのにもかかわらず、恋愛よりも正義を重んじたために、彼女を救えなかった。彼らの若さも純粋な正義もまた、時代のもとで空しく潰えて、闇に葬られていく。
 しかし、佳芝は自ら前線に立ち、自分の役割を演じていく中で、正義も熱血も超えて、時代の狂気を身体で感じていく。それが彼女を成長させ、易先生を捕らえて絡めとるまでにいたる。初体験以上の屈辱だったレイプにも耐え、濃密に身体をあわせるようになっても、彼女は自分の任務を忘れない、はずだった。それが狂ったのはどこからだったのだろうか。そして、佳芝が易先生に愛を感じた一瞬が命取りとなり、彼女もまた時代に飲み込まれ、命を途絶えさせるのだ。
 しかし、もし彼女が生き延びても、このまま易先生と結ばれて幸せになれたのだろうか?いや、それは絶対ない。この物語はフィクションだが、歴史上では日本の敗戦で第二次大戦が終わる。そうなると、日本軍に協力して抗日分子を捕らえていた易先生は間違いなく処刑される。どちらにしてもこの愛は不幸な結末にしか終わらないのだ。だからこそ、この愛を狂わせたのは時代なのである、と確信した次第だ。

 なお、鑑賞前に当然心配したのはいうまでもなくセックスシーンである。観る前までは、「セックスなんて関係ない、セックスなんて関係ない、セックスなんて…(以下エンドレス)」と心の中で呪文のように唱えていた。
 結論から言えば、たいしたことはなかった。必要以上に喧伝するものじゃないものだった。確かに二人は全裸でくんずほつれずし、佳芝は適度なサイズの乳房を晒し、易先生は攻めまくっていたが、彼が無表情に(つまらなさそうに?)セックスしていて、それにエロスは感じなかった。それはワタシが女性だからもちろんそう感じたのだろうが、快楽の表情はあっても、あくまでもセックスは相手の出方を見るための手段であって、決して愛の行為ではない、むしろ戦いであるというのがわかった。
 だから、セックスシーンがたいしたことないと思っても、決していらないわけではないのである。しかし、確かに性行為場面における性器や陰毛の描写が日本ではタブーとはいえ、あんなに大きなボカシはいらない。明るい場面でセックスしていた場面が多かったから、むしろ明暗調節で画面を暗くした方がベストだったんじゃないか(確か『ベティ・ブルー インテグラル』がその形でセックスシーンを修整していた記憶がある)あれのせいで、この映画がかえってポルノに貶められてしまったのではないだろうか。
 無修正を希望するなんて野暮なことは言わないが、DVD発売時にはぜひ別の形の修整をしてほしい。

 セックスシーンが大したことないとはいえども、それじゃあオマエはこの映画にエロティシズムを感じなかったのかと問われれば、もちろん否である。全裸で相見える場面より、服を着て佇んでいる場面のほうが官能的だ。
 例えば、原作通り、麥夫人として易先生宅に潜り込んでマージャンする佳芝に、帰宅した易先生が投げかける視線と彼女が返すそれで、二人の関係をほのめかせる場面。香港で易先生を玄関まで招く佳芝と、彼の立ち姿。無言で椅子に座る易先生。暗殺への突破口が見えた中、佳芝が裕民と呉に彼の恐ろしさと自分の味わってきたことを吐露する場面。そして、日本式の料亭にて、畳に座る易先生が彼女を膝に抱く場面…。それらこそが、この映画を官能的に仕上げている要素ではないだろうか。
 そして、その官能を作り上げるのも、そして打ち砕くのも、あの1940年代上海に漂った時代の狂気である。
 だから、ワタシはこの映画を恋愛官能映画であるとともに、時代の狂気を感じさせる世界の映画であると感じたのだ。
 
 とりあえず、最初の感想はここまで。キャラクターの見どころや関連することなどはまた後日別記事にて。
 昨日観た時、水分補給過多気味で鑑賞に臨んだのだが、鑑賞後の身体は乾ききり、疲労感が漂っていた。もし充分な気力がなかったら、ワタシはこの映画にノックアウトされてしまうと思い、今日は観に行かなかった。でも、上映期間中はできるだけ観に行きたい。

原題:色、戒
監督&製作:アン・リー 製作:ビル・コン ジェイムズ・シェイマス 原作:アイリーン・チャン 脚本:ワン・ホイリン&ジェイムズ・シェイマス 撮影:ロドリゴ・プリエト 音楽:アレクサンドラ・デスプラ
出演:トニー・レオン タン・ウェイ ワン・リーホン ジョアン・チェン トゥオ・ツォンホワ チェン・カーロッ クー・ユールン

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プラットホーム(2000/中国・日本・フランス)

 またまた映画からかなり遠い枕にて失礼。

 日本では昭和ブームである。でも、昭和といっても64年間あったわけで、ブームの中核を担っている某三丁目のなんたらの時代である昭和30年代と、ワタシが青春を過ごしたバブル期でもある昭和末期とでは、生活水準も景気も清潔度も公害の発生も全然違う。だいたいにして30年代なんてこっちは生まれていないから、懐かしがる理由すらもないはずなのである。これについて語るとますます脱線していくのでこのへんにしておく。

 振り返って中国である。前回と同じような論法で失礼。
日本でいう三丁目のなんたらの時代、中国では文化大革命の嵐が吹き荒れ、行き過ぎた共産主義が資本主義を敵とみなし、ブルジョア階級を糾弾しては若者に労働を呼びかけた。その時代の狂気を映画によって告発したのがイーモウやカイコー、田壮壮たちのように文革時に青春期を過ごした“第5世代”の監督たちだった。それは80~90年代の世界映画界で注目されて賞賛を浴びたが、当然政府はそれを問題視し、彼らの映画作りを制限していた。この世代の監督たちが国内でも自由に作品を作れるようになり、特にイーモウやカイコーがハリウッドにも匹敵する規模のアクション大作を撮るようになった現在、『太陽の少年』や『小さな中国のお針子(これは厳密に言えば中国映画ではないが)』のように、文革を単なる時代背景の一つとして取り上げ、テーマとしては特に重要視しない作品が登場したり、ポスト文革の若者を描く作品が増えてきた。監督の世代交代で起こっている現象だろう。
 文革真っ盛りの1970年、山西省に生を受けたジャ・ジャンクーもまたポスト文革世代である(と言っちゃっていい?)が、彼の長編第2作である、この『プラットホーム』は彼の幼少期にあたる80年代を舞台にして、ポスト文革の若者たちの魂の彷徨を描いた作品である。

 明亮(王宏偉)、瑞娟(趙涛)、張軍(梁景東)、鐘萍(楊天乙)は山西省[シ分]陽の文化劇団に所属し、各地を回って歌を歌い、演劇を上演していた。張軍と鐘萍の交際は親も認めていたが、互いに愛し合う明亮と瑞娟は、親密な関係に今一歩踏み切れず、おまけに瑞娟は親からしきりに縁談を薦められていた。
 文革終了後間もなく、文化劇団は毛沢東思想に基づいた劇を上演していたが、中国の改革開放に合わせて台湾や香港から流行歌が中国各地にやってくるようになり、文化劇団でも西洋音楽を積極的に取り入れた演目が上演されるようになる。張軍は親戚のいる広州に行って最新の香港ファッションや音楽をどっさり持ち帰り、鐘萍はパーマをかけてフラメンコを踊る。
 改革開放による自由を謳歌する若者たちだが、恋愛関係や周辺の状況は変化していく。瑞娟は明亮との間に距離を感じ始め、鐘萍は張軍の子供を身ごもるが、産むのを反対されておろしてしまう。さらに文化劇団への政府からの援助が打ち切られ、最年長者を団長にして新たな出発をすることになったが、瑞娟は街にとどまることを決意する。
 旅回りに出た文化劇団は明亮の従兄弟三明(韓三明)のいる炭鉱の村で公演をすることになり、明亮は炭鉱で働く三明の過酷な状況を改めて知る。さらに別の街では、結婚していない張軍と鐘萍が一緒に部屋に泊まったことで警察に連行される。自分たちは夫婦だと言い張る鐘萍をよそに、張軍は罪をあっさりと認める。失望した鐘萍は[シ分]陽に戻った後、張軍たちの前から姿を消す。
 80年代後半、劇団には明亮と張軍に加え、かつての仲間の二勇と新たに加わった双子のダンサーしかメンバーがおらず、「深[土川]ロックンロール・エレキバンド」と名を変えて明亮の歌うロックとダンサーのブレイクダンスをメインに旅回りを続けていた。しかし、彼らの活動も限界を迎え、二人は劇団の解散を決意する。[シ分]陽に戻ってきた明亮を迎えたのは、今は税務署で働く瑞娟だった…。

 開発バブルに浮かれる中国、と書くと非常にありきたりであるが、今思えばこの国は20年以上前から急激に社会が変化していたということを忘れてはいけない。ジャンクーと同世代のワタシであるが、そういえば高校の地理の授業で中国のことを学ぶと、中学校で学んだ人民公社が高校では登場せず、人民公社の解体による自由化で、裕福な農民が増加してきたということを言っていたような、ということを思い出す。大学ではもちろん専門的にやっていたのだから、より詳しい状況を知ることができたのは言うまでもない。
 でも、そこではもちろん各地の状況も詳しくはわからない。今でもそうだが、どうしても大都市の大きな変化ばかり目が行ってしまうからだ。そんな調子なので、山西省出身のジャンクーが、自らの故郷を舞台に時代のうねりとポスト文革世代の若者たちの群像をリアルに描いてくれることは、中国の現代を理解する手助けになってくれてありがたい。(それが面白いか否かはまた別の話)
 観ていて興味深かったのは、主人公4人の考え方。彼らは旅回りの劇団に所属しているからというわけじゃないけど、生まれた街を捨て去ってまで都会で成功したいという野心が薄かったような気がする。彼らを動かすのはテレサ・テンやジョージ・ラム(実はレスリーの「モニカ」も挿入曲に使われる予定だったらしい)など香港や台湾の80年代ポップスやユンファのファッションなどであるが、それを求めて広州まで買い出しに行っても、手元に置いて楽しむだけで都会に行きたいという意志を見せない。(いや、もしかしたら失踪した鐘萍は広州から香港へ行ってしまったのかもしれない)旅に青春をおいた彼らは、そこで出会う人々やモノゴト(初めて汽車者を見た時のはしゃぎようといったら!)が彼らの好奇心を刺激するので、大都会に出なくても十分満足していたのではないだろうか、などとちょっと考えてみたりする。
 そんな刺激的な旅もいつかは終わりが来る。劇団と共に青春を送った張軍は腰まで伸ばした髪を切り、明亮は瑞娟と結婚してカタギになり、青春に幕を引くのだ。張軍の愛は鐘萍を失ったことで終わり、明亮は三明を見て厳しい現実を知る。青春の夢が泡沫と消え、彼らは現実で生きていくことになるが、もし彼らが実在したら多分40代後半くらいだ。いったいどういう生活を送っているのだろうか。
 
 確かに2時間半の上映時間は長いし、時代背景がはっきり語られないのと省略が多いので(それはホウちゃんや家衛や青山真治の作品も同じだが)、ちょっと退屈してしまうのはいうまでもない。実際ワタシも途中で意識が(苦笑)…なんだけど、これが世界に絶賛されたというのは充分わかる。この作品がデビュー作だった趙涛の初々しさ、香港ファッションをまとっても黒ぶちメガネは手放さない王宏偉の「あの頃の」今時の若者っぽさ、3作品通してみても全然印象がぶれない(しかもまた名前を聞いてちょっと笑った)韓三明の朴訥さなど、役者たちもいい味わいがある。

 ところでジャンクーの次回作は王朔の『刺青時代』の映画化で、しかも主演にジェイが予定されていると聞いたんだけど、それはどこまで本気なんだ?それを聞いたのもかなり前の話なので、もしかして企画倒れになってるのかもしれないけど。

原題:站台
監督&脚本:ジャ・ジャンクー 製作総指揮:森 昌行 製作:市山尚三 撮影:ユー・リクウァイ 音楽:半野喜弘
出演:ワン・ホンウェイ チャオ・タオ リャン・チントン ヤン・ティエンイー ハン・サンミン

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世界(2004/中国・日本・フランス)

世界(2004/中国・日本・フランス)
 というわけで、みちのくジャ・ジャンクー祭り第1弾(笑)。
でも前振りはいきなり映画から遠いです。先に謝ります、ごめんなさい。

 この年始、元旦から実業団駅伝と箱根駅伝を観ていた。もちろん中国系選手なんて出ていないんだが、日本人選手とエチオピアやケニアからやって来たガイジンランナーたち、その両方の素晴らしい走りに目を奪われていた。そんな中、いつだかのオリンピックか世界陸上にて、エチオピアのワイナイナ(だったと思った)が男子マラソンで優勝した時、彼は日本の実業団で走っていたことから、日本への感謝を寄せていたというのをどっかで目にしたことを思い出した。そこからワタシは「そうか!アフリカンランナーたちには、箱根や群馬の駅伝などで鍛えられた人たちがいるんだ!もし北京五輪やそれ以降の男子マラソンで日本育ちのアフリカ人選手が優勝したら、それは素直に喜んでいいことなんだ!」というある意味極端な結論を導き出した。この記事をご覧になっている諸先輩方、どうかそんなワタシを笑ってくれ。はははははは(と自分で笑う)

 ふりかえって、映画の世界でその論法を当てはめる。
『長江哀歌』で一昨年のヴェネチア金獅子賞を受賞したジャ・ジャンクー。彼はもともとインディペンデント映画の出身で、中国政府に許可を得ずに作品を海外の映画祭に出品していたことから、初期作品が大陸で上映されなかった。しかし、そんな彼の才能に着目してサポートしたのが、フランスの映画人とあのバカ監督(誰だかはもう言いませんが、これでも彼に対する敬称です)の所属事務所オフィス北野。松竹で『フラワーズ・オブ・シャンハイ』をプロデュースし、退社後は東京フィルメックスのプログラムディレクター等を務めてきた市山尚三氏(今はオフィス北野所属なのかな?)と森社長が製作に名を連ね、幾作品も手がけて今に至るようだ(『長江』では製作に関わっていないけど、スペシャルサンクスで市山氏の名前が挙がっていた)。いうなれば彼も日本に育てられたといえるから、ジャンクーのことを素直に自慢してもいいかもしれない…ってこれまた極論?それとも暴論?
 そんなことはさておき『世界』である。

 北京郊外にあるアミューズメントパーク「世界公園」。「北京を出ないで世界を見よう」というコピーを掲げたこの公園には、世界の名所旧跡ランドマークが全て10分の1スケールで作られている。そこで働く26歳の小桃(趙涛)は各国の民族衣装をまとって華麗に踊るダンサーだ。同郷出身の警備主任太生(チェン・タイション)とは恋人同士だが、どうも身体の関係に進むのが疎ましい。そんな彼らの周りには、ダンサー同士のカップルであるニュウとウェイ、ロシア人ダンサーのアンナ、太生の幼馴染のサンライ(王宏偉)と二姑娘などがいるが、だれもがさまざまな悩みや痛みを抱えている。愛しているのにセックスを拒まれる太生は怪しげな仕事をしている先輩ソンからの仕事依頼で、借金を踏み倒した男の姐チュンを訪ねるが、一目で彼女のとりこになってしまう…。

 ファーストシーンで鮮やかな緑のサリーに身を包み、私服では地味なカジュアルスタイルにブーツやカラフルなマフラーでアクセントをつけて着こなす小桃は見事なまでに今時の20代中国女子。彼女の抱える悩みも非常に今時らしい悩み。太原という地方都市から脱出し、華やかな仕事に就き、ハンサムな恋人もいるのにどこか満たされないという、どこの男女も抱えているありふれた悩みである。それが太原より広い北京の街にある箱庭のような公園で展開されるので、広い都会に身を置いていても心が閉じ込められて身動きできない閉塞感を出しているようだ。また、カラフルで人工的な公園内の風景と対照的するかのように、外の風景は一部(小桃が中年男に口説かれるカラオケバーなど)を除いて重々しくて暗い。それがまた閉塞感を強調している。
 「世界公園」で働く小桃以外の女性たちは意外にも前向きだ。といっても恋人との結婚を決めたり、なんとかいい役職を得るために重役の愛人になったりという程度であるが、今のままの自分に満足しない、もっとよい生き方をしたいということを考えているようだ。だけど、小桃は今の自分を変えたいとも思わず、流されるままに日々を過ごしている。こういう部分は全世界の若者にとって普遍的なことであり、リアルに感じるのだろう。
 そんな小桃が自分の世界を変えようと思ったのが、太生との結婚を決意したことなのであるが、それは些細なことから思いもかけぬ結末を引き起こす。別れる、別れないのいざこざが命に関わる重大事故を引き起こしたわけであるが、なんとか一命を取り留めた(と思う)二人はこれでいったん古い自分を殺してしまい、最後の小桃の「これからが新しい始まりなのよ」が示すような、新しい世界への出発を迎えたのだろう。
 このように、この映画に用いられる「世界」にはさまざまな意味がある。“世界”公園であったり、それぞれの心情を表す言葉であったり。それを踏まえた上でのこの題名なのだろう。

 ヒロインの趙涛は、ファーストシーンで一瞬『長江』のあの悲しそうな沈紅と同一人物には見えなかったのだが、素顔は相変わらず悲しそう。30過ぎ既婚者の沈紅と20代独身青春真っ盛りの小桃の演じ分けはさすが。多分、まだ若いんだよね。30代になったばかりか?太生を演じるチェン・タイシェン(漢字が出ません)はジャンクー映画の登場人物にしてはハンサムだなーと思ったら、『思い出の夏』で助監督を演じたプロの俳優さんだとか。太生の幼馴染で、いかにも肉体労働者な雰囲気のサンライを演じたのが、趙涛と共にジャンクー映画常連の王宏偉だったのだが、メガネじゃないので(しかもヒゲ面)誰だかわかりませんでした。そして「サンミン!」と声がかかれば必ず画面に現れるのが、韓三明だった。すまん三明、つい笑ってしまった。

 音楽は『好男好女』に出演していた台湾の林強。ずいぶん前にステージ活動をやめ、完全にミュージシャンになってしまったのね。ロックではなくアンビエントの方向に進んでいるけど、このところの中華電影のサントラがオーケストラ方面なのでかえって新鮮に聴こえる。
 また、この映画ののユーモア要因は小桃と太生がやりとりする携帯メールに彼らの心象を描き出したフラッシュアニメ。どことなくぎこちない映像が突然目の中に飛び込んでくるけど、これまた劇中のリアリティを和らげる効果はあげているんじゃないかな。

監督&脚本:ジャ・ジャンクー 製作総指揮:森 昌行 製作:吉田多喜男 市山尚三 撮影:ユー・リクウァイ 音楽:リン・チャン
出演:チャオ・タオ チェン・タイシュン ワン・ホンウェイ ハン・サンミン

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鳳凰 わが愛(2007/中国・日本)

 中国映画にハマるのは、なにもワタシたちのような観客側だけの話じゃない。映画を作る側、特に俳優にもハマっていく人が少なくないみたいだ。NHK中国語講座のアシスタントを務めた前田知恵ちゃんのように、北京電影学院で本格的に女優として学んだり、中国のドラマに抜擢された日本人留学生のような存在から、大物では健さんのような人までさまざまだ。あ、日本人であっても金城くんはもとから中華明星なので完全に別格。
 そんな中でいちばん強烈な印象を残したのが、『鬼が来た!』や『故郷の香り』で過酷な撮影現場を体験した香川照之であり、『天地英雄』を経て、この『鳳凰』で初のプロデュースを手がけた中井貴一である。この二人は姜文さんとの共演、そして撮影現場を本にまとめているという点で共通点がある。
照之も貴一ちゃんも撮影現場ではそれぞれ散々な目にあっているようなのだが(ちなみに二人の本は読んでいない。インタビューでの発言から推測しただけ)、なぜか続けて出演しているのだから、よほどハマったのだろうか?(照之の次回作は台湾映画らしいぞ)過酷そう現場なのに、なぜそんなに中国映画にハマる?

 中華民国初期の東北地方。劉浪(貴一ちゃん)は恋人の鳳児にいたずらした男を殴り倒したが、男が重傷を負ったので劉浪は逮捕され、懲役15年の刑を受けて服役することになる。刑罰の重さに理不尽さを感じた劉浪はいらだち、それを同房の古株、老良頭(グオ・タオ)になだめられる。やがて、劉浪は母から鳳児がレイプされて自殺することを聞き、衝撃を受けて脱獄を図る。
 同じ監獄の女子房には、暴力を振るう夫を殺して投獄された周紅(ミャオ・プウ)がいた。死刑確定を取り消された彼女だが、日々無気力な生活を送っていた。 お互い看守に反抗的な態度を取ったことから、劉浪と周紅は共に豚小屋の掃除をさせられることになる。壁で隔てられた監獄の中、普段はいっしょに行動できないのだが、ここから心の交流が始まり、やがては愛し合うようになる。野外作業で周紅が崖から谷に落ちたとき、劉浪は真っ先に助けに行った。
 しかし、女好きの新入り囚人が女子房に乱入したことがきっかけで、女子房が独立し、移転することになって、二人は離れ離れになる。鳳(鼠=雌)が凰(蛇=雄)を求めるという故事のように互いを求め合う劉浪と周紅の運命はどうなるのか。

 この長きにわたる男女の物語は実話にもとづいているという。どのへんがだ?というのは後で調べるからいいとして(苦笑)、同じ実話に基づいた話としても、某〇イソラとはスケールも質も全然違う(そんなもんと比べるなよ)。
 本編のほとんどが刑務所の中なので、『覇王別姫』のように激変する20世紀中国の姿は具体的に描かれず、繰り返し登場する老良頭の取り調べ場面で政権の交代が語られるくらいにとどめてあったのだが、恋愛をメインに出すならむしろ政治や歴史の話が表にでるのはそんなくらいでいいだろうとおもう。うまい処理の仕方だ。
 しかし、それ以外は結構ツッコミたくなったのはいうまでもなかったりして。もしあの刑務所のように男女の監獄が共存する施設があったとしても、あそこまで自由にやらせてもらえていたのか?なんか20年前の高校生が全寮制で暮らす学園ものやっているようなノリになっていないか?とか、吹雪の中で劉浪が落ちた周紅を救おうとして自分も落ちた末に彼女を見つけたのが、雪が積もっておらずに動物たちがフツーに暮らしている洞窟(というか愛の異次元空間?)だっていうのもこらこらって思った。
きわめつけが日本占領下の時代に劉浪が実は川に落ちて生き残った日本人である(東北地方に商談しに行き、川で水難事故にでも遭った名士の子弟か何かという設定か?)というのが語られる場面。これは貴一ちゃん自身が、日本人である自分が出演するのに説得力を持たせるために、監督と相談して付け加えた設定らしいのだが、そんな設定はいらなかったんじゃないか?
 これ、もう大陸でも公開されたのかもしれないけど、このへんにおける現地の反応がちょっと気になる。

 と、ついつい気になる点を先に挙げてつっこんでしまったけど、これはそんなに悪い映画じゃない。これまで日中合作で作られてきたラブストーリー映画の中では比較的出来はいいと思うし、貴一ちゃんも潔く頭を丸め(ラストでは弁髪断髪シーンまでサービス。ちょんまげだけじゃなく弁髪も似合うんじゃないの?)中国語の台詞もだいたいこなしていたくらい熱演していたし。…でも一部だけ本人の声質とは違うように感じたのだけど、もしかして一部アテレコしたのだろうか。
 周紅を演じたミャオ・プウは、多分初めて見た女優さん。かなり生活臭を漂わせていたが、ジャンクー作品の常連である趙涛とどっちが年上だろう。いや、これを観た翌日に『長江哀歌』を再見したこともあって、ちょっと雰囲気似ているなぁと思ったので。 
 でも一番よかったのは、最近やたらと顔を観るグオ・タオの老良頭だな。伸ばしっぱなしの髪を結っていつの人間だよ?と思うくらいの風貌を持っている彼は、占いを得意とする最年長の囚人。囚人たちのリーダーでもあり、劉浪の善き友となって彼をサポートする。ユーモアもあっていい味出してました。 
 日本でもいろんな映画に出演し、最近は悪役も少なくない貴一ちゃんが、『天地英雄』に続いて中国映画に出たのは、『天地英雄』を観たジン・チェン(金[深+王-シ]。ジヌ・チェヌっていう日本語表記は明らかに間違い。誰だこんな表記にオッケイ出した偉いヤツは)監督が出演依頼をしたからということ。よかったじゃないか貴一ちゃん、中国での苦労が報われて、ついでにプロデュースまで手がけられて。今後どこまで中国映画と関わるかはわからんけど、これが縁でもーちょっといいアジアンコラボが展開できたらいいもんだよねー。

 最後にもうちょっと。音楽は『悲情城市』以来久々の中国語圏映画のような気がするSENS。『悲情城市』以降、彼らの音楽は日本のドラマで多用されたのでだいぶ耳馴染になったけど、トレンディ(死語)ドラマの劇伴より、こういったアジアンシネマの映像の方がよりマッチしている。

監督&原案:ジン・チェン 製作総指揮:角川歴彦 製作:中井貴一 高秀蘭 音楽:SENS 
出演:中井貴一 ミャオ・プウ グオ・タオ

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長江哀歌(2006/中国)

 真っ黒に日焼けした半裸の男たち、味わいのある顔をしたお年寄、ほっぺの赤い子供、ケータイの着信音、花札に興じる人々がボンヤリとして揺らめいている大きな画面の中でひしめき合い、その合間を漂うように中国歌劇の歌声とコンピューターサウンドをリミックスしたゆるやかな調べが流れてくる。 ジャ・ジャンクーの『長江哀歌』のオープニングを眺めていると、舞台も時も何もかもが曖昧になってしまい、まるで未知の世界に無理やり連れて行かれるようなトリップ感を味わう。しかし、この映画の舞台は間もなく水没を迎える四川省の奉節という長江中流の街であり、映画の中の時はその街の人々の大多数が立ち退き、建物の解体作業が進んでいるほんの3年くらい前の現代である。

 炭鉱夫の韓三明(韓三明)は16年前に別れた妻子を探しに、山西省から奉節にやって来る。かつて妻の住んでいた街はダムの底に沈んでしまっていたが、妻の兄の言葉から彼女が宜昌に行っていることを知った三明は、奉節でビル解体の仕事をしながら妻の帰りを待つことにした。三明はマーク(周林)という若い男と意気投合する。チョウ・ユンファに憧れているマークの着メロは『上海灘』。解体の仕事をしながら、ヤバイ仕事にも手を出している青年だ。彼を始め、労働者が多く住む「唐人閣」の大家で、四川なまりのひどい何さんや、三明の娘のことを知っていた女など、三明はこの街でさまざまな人たちに出会う。
 同じく山西省から、看護師の沈紅(趙涛)が奉節にやって来た。この街で働いていた夫が音信不通になり、2年経ったので探しにきたのだ。沈紅は夫の軍隊時代の友人で、この街で埋蔵文化財の発掘を行っている王東明(王宏偉)の協力を得る。夫は立ち退き強制の仕事で財を成し、ちょっとした金持ちになっていたのだ。そんな彼に対し、沈紅は好きな人がで来たから離婚したいと一方的に別れを告げ、たった1人で下流の上海へと旅立つ。
 三明は沈紅の夫の下で働いて羽振りのよくなったマークと食事の約束をするが、その夜、彼は姿を見せなかった。心配になった三明がマークの携帯に電話をすると、自分の働いていた解体現場の瓦礫の中から『上海灘』のメロディが流れてくる。マークは死んでいたのだ。マークを弔った彼のもとに、妻が帰ってきたという知らせが入る。妻は兄の借金のかたとして男に囲われ、船で働いていたのだ。彼女を連れ戻したいと三明は願うが、妻を囲った男から、妻の兄の借金3万元を支払うように要求される。そのために彼は、山西の炭鉱に戻り、危険だが手っ取り早く金を稼いで1年後に妻を迎えに行くことを決意するのであった…。

 政治面では共産党一党独裁を維持しながらも、改革開放で急速に市場経済が発達し、北京五輪を控えて大きな社会的変化を迎えている中国。今やアジアの超大国となり、日本を追い抜かす勢いのこの国だが、光の部分ばかり見ているわけにはいかない。この国の抱える矛盾や、その影響を受ける人々の姿や悲しみは、NHKスペシャルの「激流中国」シリーズや『白い馬の季節』にも描かれているし、ちょっと中国に関心を持つ人ならいろいろと伝え聞くところも多い。とかくマスコミは偽物やら反日デモや食の安全とやらのマイナス面を強調しすぎてネガティブキャンペーンを張っているように感じるが、そんなことをやっても誰も得をしない。それを鵜呑みにして中国といえば眉をひそめる人が増えているのも偏見だなぁと思う。
 でも、この映画には、中国に対するネガティブイメージは起こらない。そうだからといって決してポジティブでもない。この映画に描かれるのは、悠久の歴史のなかを流れてきた長江が発展の名のもとに大きく形を変えられる過程の中で、長江と共に生きてきた人々の運命もまた大きく変えられるという壮大なテーマを、無名の庶民のさまざまな生き様の中に描き出すという普遍的な物語である。

 まだ30代後半のジャンクーは、ホウちゃんや小津安二郎に影響を受けたという。それはホウちゃんの映画を愛する、ジャンクーと同世代のワタシもこの映画を観てよくわかった。描く時代も場所も語り口も違うけど、なんとなく近しいものを感じる。それは、香港インディペンデント映画界出身の余力為(『花様年華』の第2班カメラマンでもあった)によるデジタルカメラで撮られた長江の風景の美しさ、崩れゆくビルや住み慣れた土地を離れなければいけない人々の悲しみ、突然耳に飛び込んでくる『男たちの挽歌』のメインテーマ曲やオリジナル版『上海灘』のテーマ曲から、どこか哀愁をおびた最新中国ポップスに至るまでの劇中音楽に感じさせる懐かしさなどに、ホウちゃんの手法に通ずるものがあるのかななどと深読みしたりする。
 しかし、ホウちゃん映画にはなくてジャンクー映画にあるものがひとつ。それは妙なユーモアである。狭い船の中同じ場所にじっと固まって同じジャージャー麺をひたすら食べる三明の義兄とその仲間たちや、街の餐庁で扮装をつけたままPSP(多分)で黙々と遊ぶ川劇の役者たちや、死んだマークの遺影としてユンファの写真が代わりに飾られているなどというものはユーモアとしてはまだまだかわいい方。奉節にやって来た沈紅の後ろに何か光るものが飛んでいると思ったらなんとUFOだったり、昼間子供たちが遊びまわっていた変な形の廃墟のビルが、夜になって突然ロケットになって空に飛んでいったり、奉節を去る三明の背後で綱渡りをする男の姿が映っていたりと、突拍子もない映像が突然現れ、唖然とするヒマもなく消えていく。ユーモアを飛び越えてシュールである。VFX作業は香港のスタジオに依頼したそうだが、わざわざこれのために香港まで行ったかジャンクー(苦笑)。リアリティあふれる物語進行を突然ぶった切るシュールさだが、それも悪くはないだろう。むしろリアリティ一本槍だと見ていて疲れる。こういうセンスはやはり70年代生まれの監督ならではなのだろう。でもジャンクーが調子に乗ってこの路線を暴走させてシュールなコメディを作るといったら多分ワタシは怒る(笑)。中国映画界でコメディならニン・ハオだけで充分だよ。

 ずっと観たいと思っていた。先日発表されたキネ旬洋画ベストテンで堂々の1位を受賞した作品というのも伊達じゃない。もっと早く観ていたら、恐らく昨年のベスト5に入っていたかも。
 ジャンクーの他の作品もいつか観たいと思うけど、当分はこの路線を行ってほしい。もし間違って香港に招かれてスター主演のアイドル映画を作ることになっても、リアリティとテーマ性は失わないでほしい。

原題&英題:三峡好人(Still Life)
監督&脚本:ジャ・ジャンクー 撮影:ユー・リクウァイ 音楽:リン・チャン
出演:チャオ・タオ ハン・サンミン ワン・ホンウェイ

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なぜ『三国志・赤壁の戦い』じゃいけないのだろうか…。

 恭喜發財、萬事如意!

 今年も人の迷惑顧みず、愛とツッコミで突き進みますので、あきれながらもお付き合いくださいまし。

 新年一発目のネタはウーさん最新作《赤壁》の日本公開がこの秋に決まったことをnancixさんのところで知って喜んだことなんだが、題名が…。

 ねぇ、いったいいつ誰が決めたの?大作の題名は英題にしなきゃいけないなんてことを?
 まぁそら確かにさぁ、『三国志』は昔から人気だから、「赤壁の戦い」のついた映画作品だって今まであったのだから、仕方ないといえばそうなんだけどさ。

 と、ぐちってもしょうがないので、とりあえず本格的にプロモが始まるまで(あるいはワタシがこの夏香港で実物を見るまで)何も言わないでおきますか。
 でも、メールマガジン登録時のご意見記入欄には、しっかり「日本版イメージソングなんて絶対つけないで!」と書いておきましたよ。

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白い馬の季節(2005/中国)

 地球温暖化、熱帯雨林の消失、そして砂漠化。21世紀を迎えて、地球の環境問題はますます悪化する一方だ。
 急激な経済成長の裏には必ずその影響を受けるものがある。日本だって昭和30年代の高度経済成長期に豊かさを手に入れたが、その裏では土壌汚染による公害や、都会への人口流出による地方の過疎化が進んでいる。今流行の昭和映画続編では、表のきれいな部分のみ取り上げていて、裏の部分をなかったモノのように表さないので、それがどうも腑に落ちないので観る気分になれない。
 閑話休題。その、かつての日本のような、いやそれ以上の勢いで近代化・高度経済成長を遂げているのが中国である。来年の北京五輪に向けて急ピッチで都市部が開発されているが、やはり地方ではその経済格差が激しくなっている。さらに地球温暖化の影響で、草原や高原の砂漠化も進行している。砂漠化や経済格差の影響を受けるのは一般庶民だけでなく、自然と密接に生活してきたモンゴルの遊牧民とて変わらない。モンゴル族のニンツァイが監督と主演をつとめた『白い馬の季節』は、これまでの『天上草原』や『モンゴリアン・ピンポン』のように、漢民族や外国人からは憧れを持って見られてきた、内モンゴル自治区のモンゴル族の現状をリアルに描いた映画である。

 雨が全く降らず、強い風ばかりが吹き付けて荒地になった内モンゴルの遊牧地。
ほとんどの遊牧民が伝統的な生活を捨てて街へと移り住み、その地域に残ったのはウルゲン(ニンツァイ)の一家だけだった。羊も次々に餓死し、一人息子のフフーの学費も払えないほど、一家の生活は困窮を極めていた。さらにこの地域にも漢民族が入り込み、彼らの生活を脅かす。一家には年老いた「サーラル」という白い馬がいた。妻のインジドマー(ナーレンファ)はウルゲンに馬を売るように言うが、家族同然のサーラルを手放す気はウルゲンにはない。
 一足早く秋の牧草地に移ろうとしたウルゲンが見たのは、鉄条網を張る漢民族労働者たちの姿。草原の砂漠化を防ぐために、一般の牧草地も自然保護区に指定せざるを得ないのだ。怒りのあまり彼は労働者に殴りかかり、警察に逮捕される。罰金刑に処せられたために一家はますます貧しくなる。ウルゲンは一族出身の画家ビリグに助けを求めるが、彼は耳を貸そうとしない。
 一家は街に移住することを決意し、インジドマーはフフーとともに草原を離れる。ウルゲンも街のナイトクラブのオーナーに馬を売るが、失意のあまり立ち寄った街のクラブにて、サーラルの屈辱的な姿を目にして逆上する。彼を救ったのは、一度自分を見放したビリグだった。
 叔父の忠告に従い、ウルゲンはサーラルを野に放つことにする。民族服を脱ぎ、ゲルを片づけ、フフーと共に生まれ育った草原を後にするウルゲンだった。
 
 全編を通して画面から聞こえてくるのは、ごうごうと吹きつける強い風の音。きっと音声はほとんど同録なのだろう。お下げ髪の母親、腕白盛りの息子、そして父親の順に画面に登場するが、その生活は決して豊かでも理想的でもない。そして、彼らの住むゲルの周りには、もうほとんど何もない…。
 豊かさと引き換えに、我々は多くのものを失ってきた。それでも、伝統は守るべきものだと自覚していることもあり、細々とながら生き続けているものも少なくない。しかし、ウルゲン一家のように、自然と共に生きる民族の場合は違う。近代化や生活環境の激変に加え、地球環境の悪化も彼らの生活に多大な影響を与えている。チンギスハンの末裔であるモンゴル人として伝統を守り、本当は草原で一生を終えたい。しかしそれすらもできない。こういう状況を見せつけられれば、遊牧民たちが街に移らざるを得ない理由も大いにわかる。
 さらに説得力があるのは、漢民族を一方的な悪役にしておらず、金に目のくらんだ同胞もいれば、遊牧民の生活に憧れる漢民族の中年なども登場させてバランスを取っていることだ。冒頭、漢民族によるウイスキー大宣伝部隊がやって来て、インジドマーやサーラルが驚いてパニックになる場面があるが、宣伝部隊のトラック運転手を務めたのがその中年おじさんで、それに申し訳なく思ったからなのか、片言のモンゴル語をしゃべりながら一家を助けてあげる。それもインジドマーに密かに惚れているからなのだが(もちろんふられる)、彼は都会があわずにストレスで身体を壊して(だったと思った)内モンゴルで働いていると説明していた。そういう人ももちろんいるのだろうな。
 また、ウルゲンをめぐる人々で印象的に描かれていたのが、草原で暮らす彼の叔父と、人気アーティストとなったビリグ。年老いた叔父は草原に命を捧げているようなものだが、妻と押さない息子を抱えたウルゲンにはその覚悟がない。また、チンギスハンをモチーフにしたグラフィカルアートで人気を得たビリグをウルゲンは激しくなじるが、彼とてモンゴル族の誇りを捨ててはいないことが、クラブで騒ぎを起こした場面のあとにわかる。ウルゲンに伝統的な鎧を着せ、サーラルと共に傷ついた姿をキャンパスに描き、「この絵はオレでもありオマエでもある」と彼に告げることで、ビリグが民族として社会に敗北したこととそれに対する諦観を抱いているように感じた。

 街に出た後も、もしかしてウルゲン一家には幸せは来ないのではないか。そして、モンゴル族だけではなく、さまざまな理由で伝統を捨てなければいけない少数民族が、中国にはまだまだいるのではないか。中国政府と思想的な対立をしているチベットにも鉄道が開通したことで漢民族が流れ込み、今後の生活がガラッと変わることも予想されているともいう。この国がいったいどこに行こうとしているか、それは中国が好きであっても嫌いであっても、同じアジアの人間として、見守っていかなければいけないのだろう。いや、それしかできないのだけど…。

原題:季風中的馬(Qak-un sarel/Season of the House)
監督&脚本&出演:ニンツァイ 撮影:ジョン・リン
出演:ナーレンホア チャン・ランティエン

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呉清源 極みの棋譜(2006/中国)

 昭和期の日本で活躍した外国籍の人間は意外と多い。有名なところではやはり映画にもなった力道山か。そんななか、昭和期の囲碁界の生ける伝説となった呉清源の名前は知らなかった。未だ存命中の彼の伝記映画が『呉清源 極みの棋譜』である。

 昭和初期の日本。名棋士の瀬越(柄本明)と喜多(松坂慶子)の招きにより、呉清源(張震)は14歳で母(シルヴィア)や妹とともに来日した。彼の碁は相手の読みを遥かに超えた打ち方を見せ、好敵手の木谷(仁科貴)や兄弟子の橋本(大森南朋)を魅了する。その奇想天外さは対戦した木谷が考え込んだ挙句に鼻血を出して昏倒してしまうくらいのものだった。
 しかし、間もなく日中戦争がやってくる。清源は家族を帰し、碁に打ち込むために日本国籍を取得する。中国で紅卍会という新興宗教に入信していた清源は、同じ流れを汲む篁道大教の道場に通っていた中原和子(伊藤歩)と結婚するが、戦乱が日本と中国に暗い影を落とす中で、碁を通じて心理を追及する姿勢はいよいよ極まり、長岡良子(南果歩)率いる新興宗教・璽宇教に和子とともに帰依してしまい、碁の世界から離れてしまう。
 戦後、読売新聞の主催で打ち込み十番碁という対戦の機会が与えられ、清源は棋界に復帰して相変わらずの強さを誇る。その間、新興宗教ではトラブルが起こり、そこに残してきた和子が逃げ出したことから、夫婦揃って脱会する。
 昭和中期、清源は街を歩いていてバイクに跳ねられ、その後遺症でしばらく碁が打てなくなる。やがて、恩師の瀬越が自殺し、親友の木谷もこの世を去る…。

 映画に求められるのは爽快さや娯楽であるのはもちろん言うまでもないけど、この映画で描かれるような、一人の人物が大きな画面にただ佇んでいる姿から、その人物がどんな人生を送り、どんなことを思いながらスクリーンの中で生きているのか、各自があれこれ想像をめぐらせられそうな映画もまた必要だ。ほとんどの日本人(中国人もか?)が知らなかった呉清源氏の生涯を描くには、もちろん『知ってるつもり!?』的視点も必要なのかもしれないが、こういう“魂のあり方”を画面に描き出した手法だって悪くはない。…いや、観終わった後に近くの人が、「これってとりとめもない『知ってるつもり!?』じゃん?」とやや不満げに呟いていたのがちょっとひっかかっていたので。
 田壮壮さんは前作の『春の惑い』でも、大きな事件を一切廃して、禁断の恋への予感にときめく主人公の姿を淡々と描いていたので、ある程度そうなるんじゃないかということは予想済みだったし、それだからこそ、こっちも碁のことを勉強しなくても清源さんの半生に伴走できたような印象。
 今の平和な世の中でも、中国人が日本で行きぬくのは大変だろうけど、天才少年棋士として有名だった清源もこの映画に描かれた以上の苦悩を体験してきたのだろう。そういう厳しさの中でも、自分が打ち込む碁と、そこにある真理を追究し続けた彼は、さしずめ“盤上の哲学者”なんだろうな。

 坊主に近い刈り込まれた頭に黒ぶち丸めがね、仕立てのいい和服に身を包んだ張震演ずる清源は非常にディーセント(上品)で美しい。完全に中国人設定だから日本語が片言でも全く問題ないし(本人はロケ終了後すっかり忘れてしまったって言ってたけど)、冒頭で清源さん本人と語り合う姿はほとんど本人の孫(微笑)。彼と伊藤歩ちゃんが90歳近い呉夫妻と語り合う姿なんて、ホントに祖父母を訪ねてきた孫夫婦(孫が中国人、妻が日本人)って雰囲気だったし、ホントにはまり役。これをいい機会にもっと日本でも知名度が上がればいいけど…って無理か。いくら『天堂口』の公開が控えているとはいえ、ねぇ…。
 そんな清源の苦悩や迷いを全面的に押し出したせいか、日本人キャストは彼から一歩引いたくらいの位置で熱演。(?)どっしりと落ち着いた柄本さんに米倉斉加年さん(今のNHK朝ドラのおじいちゃん役もよかった!)、お父さん(川谷拓三)に似てきたなぁと思った仁科さんが印象的。ノーベル賞受賞者(川端康成)を演じた野村宏伸、はっきり言って美味しすぎ。逆に大森南朋くんは、さすが『ハゲタカ』の鷲津からプータローまであらゆる役柄をこなすカメレオン俳優だけあって…あまりにも地味でした(チョイ泣)。

 これを観て碁に興味を持ったかというと、実はそんなんではないんだけど(本当にすみません>日本棋院さん)、激動の昭和を天才がどう生きてきたかというテーマで観てみれば、個人的にこの映画はただいま強力大ヒット中の某昭和映画続編よりずっと価値がある。しかもそれを中国人監督が作ったという点でもやっぱり価値がある。
 まぁ、あの日に広島で行われた本因坊戦があんな状態だったってのが果たしてホントだったのかどうなのかはなんとも言いがたいんだけどね。あの時、瀬越さんの息子さんは亡くなってしまったと言うけど、いったい広島のどのへんで橋本さんたちは本因坊をめぐって戦っていたんだろうか(この部分はあえてネタバレ避けてます、ハイ)。

英題:The Go Master
監督:田壮壮 衣裳&プロダクションデザイン:ワダエミ
出演:チャン・チェン 柄本 明 伊藤 歩 仁科 貴 大森南朋 南 果歩 シルヴィア・チャン 米倉斉加年 松坂慶子

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夜の上海(2007/日本・中国)

 いつも元気いっぱいで、大きな目がキュートなヴィッキー・チャオ。
 そんな彼女のどアップになった『夜の上海』のポスターが、うちの近所に貼られている。ああ、まさかこんな盛岡のど田舎で彼女の顔が拝めるなんて!なんていいながら、友人と件の映画を観に行った。

 カリスマメイクアーティストの水島直樹(モックン)は音楽祭の仕事のためにパートナーの高橋美帆(西田尚美)と共に上海にやってきた。恋人でもある美帆との関係に悩み、情緒不安定気味の水島は、音楽祭が終わると同時に何も持たずにふらふらと夜の街を歩き出す。いつの間にか迷子になった彼は背後からやってきたタクシーに飛ばされる。幸い死にもせず、怪我ひとつなく(!!)すんだのだが、慌てたのは彼にぶつかったタクシー運転手の林夕(ヴィッキー)。タクシーに彼を押し込み、強引に観光に出るが、北京語のできない水島とはとにかくかみ合わない。林夕は修理工の東東(もこみち、違ったディラン)に思いを寄せているが、水島を乗せている最中にかかってきた電話で、彼が翌日結婚することを知る。ショックのあまり水島を放り出す彼女だったが、行きがかり上、彼と行動を共にする羽目になる。北京語も話せず、一人ではまったく何もできない水島と、東東への思いを吹っ切れず、やけくそ気味に街を突き進む林夕がタクシーで過ごす“上海の長い夜”の中、まったくかみ合わない二人は次第に心を通わせるようになり…。

 いやもう、とにかくヴィッキーがかわいい!
 寝癖が飛び上がるぼっさぼさ髪でタクシーを乗り回し、がさつな運転で稼ぎまくる林夕(香港の人気作詞家と同じ名前なのは単なる偶然か)。一応恋する乙女なのに、うっかり告白のタイミングを逃して後悔しまくり。喜怒哀楽がはっきりしていてかわいらしいし、決めの日本語台詞「ワタシノコト、スキデスカ?」もなんともいえず愛らしい。
 とにかく、これは冒頭からエンドクレジット直前までヴィッキーを愛でる映画なのである。以上。

 え?それで終わり?ということは、それ以外は…?
 ええ、それ以外はもうダメダメです。思わず暗黒もとはしに変身したくなるくらいダメダメです。
 
これより後は超ネタばれでツッコミますよー。

 まず、あんなところ(道端)でボーっと立っていてタクシーにぶつけられたらフツー死にますよ、水島さん。あんなに吹っ飛んでボンネットにぶつかってよく無傷だよなー、この映画は香港映画じゃないはずなんだか。
 そんな水島さんを取り囲む人々にもそれぞれドラマが用意されているのだが、はっきり言ってそのエピソードは不必要だったと思う。特に美帆ちゃんと彼女に恋して上海までついてきた建築家(?)の年下男河口(塚本高史)のエピソード。水島の日本人アシスタント2人のうち、マイペースなメガネ男子加山(和田總宏。個人的には塚本君より彼のほうがよかった)のええカッコしい場面はともかく、いまどきのギャルっぽさが鼻についた原ちゃん(大塚シノブ。この子誰?)と、最初観た時とてもサムとは思えなかった通訳(サム)の「モリコーネが好き」談話もなんか浮いていた感じ。ちなみに友人曰く、このときのサムは若いころのさだまさしに見えたとのことで、鑑賞後の飲み会で「あのサムは“サムまさし”だね!」と妙に盛り上がってしまいましたよ。
 それをもぶっ飛ばす勢いで、最も浮いていたのが、何をやってもくどくてしつこく、すでにそのくどさも達人の域に達した感もある竹中直人の暴走演技。なんかくどいも痛いも通り越して言葉を失ったよ…。ま、彼はこれが芸風だからあきらめるしかないか。
 えーと誰か忘れているなぁ、ああそうだ、ディランもこみち!彼は初見なんだけど、いやぁ、噂にたがわず見事なもこみちっぷりだ。しかし、ヴィッキーとはつりあわんなぁ…。(話はそれるけど、個人的にはヴィッキーもそろそろトニーと組んでもいけるんじゃないかと思うよ。兄妹役じゃなくて恋人同士の役で。閑話休題)

 この映画、チラシに曰く、上海版『ローマの休日』&『ラブ・アクチュアリー』を狙ったらしいけど、せっかくあんなにステキな上海の夜景が撮れているんだから、過去の恋愛映画の名作にインスパイヤされたものじゃなくて、脚本に一ひねり入れたオリジナルなラブストーリーにしてほしかったなぁ…。タクシー映画の名作『ナイト・オン・ザ・プラネット』や王家衛映画、口紅でガラスなどに落書きしまくる映画(があったよね…)など、いろんな映画の断片を継ぎ合わせて、面白がって作るのも悪くはないんだけどね。
 3年前に観た『最後の恋、初めての恋』のスタッフさんの名前もお見かけしているけど、決して批判しているわけじゃないんですよ。上海や中華圏を舞台にオリジナルなアジアンミックス作品に果敢に取り組むその意気は大いに認めていますので、これからもこの路線でも大いにがんばってください、ムービーアイさん!

 最後の最後にこれだけは。
 友人曰く、今回のヴィッキーの役どころは、香港でイーキンと共演した『マイ・ドリーム・ガール』とよく似ているとのこと。というわけで、近いうちにこっちも観てみたいと思います。  

英題:The Longest Night in Shanghai
監督&脚本:張一白 企画プロデューサー:牛山拓二
出演:本木雅弘 ヴィッキー・チャオ 西田尚美 塚本高史 ディラン・クオ 和田總宏 サム・リー 大塚シノブ 竹中直人

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クレイジー・ストーン(2006/中国)

  ダサい!
 かっこ悪い!
 でも面白い。


 『モンゴリアン・ピンポン』のニン・ハオ監督と、大プロデューサーアンディ先生のフォーカスが手を組んだ『クレイジー・ストーン』ってこんな映画。

 四川省重慶にある破産直前の工芸品工場のトイレから高価な翡翠が発見された。謝工場長はこれをビジネスチャンスとみて市内のお寺で翡翠の展示会を決意し、元警官の保安主任包(グオ・タオ)に会場の警備を依頼する。工場長から給料を貰えず、さらに前立腺炎に悩まされている包はしぶしぶ任務に就く。翡翠を狙うのは、市内で引越し業者を装っては空き巣を繰り返す道兄貴(リュウ・ファ)とマヌケな子分のこそ泥トリオ、工場の跡地と翡翠を一緒に手に入れたい不動産業者が雇った香港から来た怪盗マイク(テディ・リン)、そしてほれた女性(実は道兄貴の愛人)の気を引きたくて翡翠を欲しがる工場長のドラ息子。一見完璧に見えて隙だらけのセキュリティをかいくぐり、翡翠を手にするのはいったい誰か…じゃなくて、果たして包はダメダメのセキュリティと前立腺炎の二重苦を克服して翡翠を守れるのか?

 個人的には、中国映画に“洗練された”という単語はないと考えている。もちろん、美しい作品はないこともないのだが、美しいと洗練はたとえ似ているところがあったとしても、ものすごく遠い。とにかく、ダサいとか泥臭いとかいう言葉しか思い浮かばない。
 しかし、この映画に関しては、「ダサい」はほめ言葉として捉えたい。むしろ「洗練」に近いくらいの位置にある言葉ととってもいいと思う。そういってもホントの意味でダサいのは事実であるが。
 なにしろ物語の舞台からしてダサい。四川省省都の成都ではなく、第二の都市(といっても直轄市)重慶。まーこの都市は歴史的には重要な場所ではあるのだろうが、工業都市としても上海などからも比べて発展が立ち遅れてしまったという。大気汚染もひどいそうで、それはダサいというよりかわいそうといった方が正しいんじゃないか?とwikipediaの重慶の項目を見て思ったくらいである。
 そんな重慶を揺るがす大事件がでっかい翡翠の発掘。これまたダサいし、トホホな状況に追い込まれた人々がその翡翠を手にすべく悪戦苦闘する。さらにダサい。欲望をむき出しにして翡翠強奪計画をたくらむ人々は、どんなに用意周到な計画を講じても、どっかで必ずヘマをしたり、偶然が呼んだ悲劇(本筋以外でも最初からその“偶然の悲劇”が頻繁に登場する。そのくだりにどことなく伊坂幸太郎の初期作品に通じるものを感じたけど、これもまた偶然よね)に巻き込まれる。道兄貴の三人組はもちろんだが、香港帰りのカメラマンを名乗りながら次々と女性に振られていくドラ息子や、クールに登場してみっしょんいんぽっしぼーなアクロバットにまで挑む香港のプロ強盗マイクまで思わぬ詰めの甘さで悲劇に見舞われる。とにかくみんなかっこ悪い
だけどこれが面白いのは、やっぱり脚本のうまさかなぁ。些細な出来事が次々と連鎖して悲劇を呼ぶ喜劇をベースにしたストーリーテリングの他、妙なところで感じさせられる大プロデューサー様の影(笑。繰り返し流れる『忘清水』のサビや三人組の一人が「これはバレーノだぜ」という言葉など)も面白い。そして『モンゴリアン』にも感じた、いつも小さなことから始まる人々のとんでもない大騒動を一歩下がってみることで、現代中国社会を皮肉っぽくというよりは客観的にみて笑うという意外と冷静な視線があるってことが、この監督の作品の特徴なのかもしれない。
 …なんて最後はまじめになってしまったかな。

 いずれにしろ、このダサさは意外とクセになるのだ。是非一般公開もしてほしいなぁ。

原題:瘋狂的石頭
製作総指揮:アンディ・ラウ 製作:ダニエル・ユー ハン・サンピン 脚本&監督:ニン・ハオ 音楽:ファンキー末吉
出演:グオ・タオ リュウ・ファ テディ・リン

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ジャスミンの花開く(2004/中国)

 チャン・ツーイーはアジアンビューティーである。それに文句はない。
 しかーし、『夜宴』の感想でも書いたけど、そうであってもどーしても彼女に文句をつけたくなる要素はいっぱいある。
 例えば、イーモウが演出する“らぶらぶ邪念”満載の彼女の役どころ。『グリーン・デスティニー』『MUSA』そして『夜宴』で見られる、鼻っ柱が強くて自分の意思を押し通す、というよりはそのワガママさが元凶で周囲の人がどんどん死んでいくファム・ファタール以前のじゃじゃ馬娘役。仕事を選んでいるのかどうかが非常に気になるハリウッド映画での演技(『ラッシュアワー2』『SAYURI』など)。そして、カンヌやオスカーや公式行事で披露してくれるツッコミがいのあるやる気マンマンなドレス姿。毎度書いているけど、華人ならやっぱりチャイナドレスを着ようよ、謙さんのご夫人はオスカーのレッドカーペットで和服着ていたしさぁ、って思っちゃうんだけど、どーかなぁ。

 そんなふうにツーイーには多少「それってどーよ」と言いたくなる気分があるんだけど、だからと言って彼女が嫌いってわけではない。数多ある作品の中でも、時々いいと思う演技をしてくれることがあるからだ。最初にそれを思ったのが、金像で主演女優賞をゲットした『2046』の演技(あれ、『初恋のきた道』は?ってのはいいっこなし)。
そして、先日新宿で観た 『ジャスミンの花開く』は久々のツーイーの熱演に好印象をもってみていた次第。

1940年代の上海。写真館を営む母(陳沖)と二人暮しの少女茉(ツーイー)は映画が大好きで女優に憧れる少女。しかし、娘に店を継いでもらいたい母は彼女に映画を観に行くことを禁じる。そんな彼女はある日、映画会社の社長孟(姜文)にスカウトされ、芸能界に足を踏み入れる。孟社長の寵愛を受け、芸能界でたちまちスターとなる茉。しかし妊娠が発覚し、孟社長との子を身ごもったことで社長の態度が急変。堕胎を進めるが彼女は拒否する。その次の日、上海に日本軍が侵入し、社長は会社を解散して茉を置いて香港へ逃げる。身重で実家に帰った茉は、母が新しい恋人として知り合いの理髪師を家に連れこんでいたことに驚く。やがて茉は女児を出産し、彼女に莉と名づける。同居生活はしばらく続いたが、ある日茉は母の恋人に襲われ、それを目撃した母は黄浦江に身を投げて自殺する…。
 文革前夜。成長して大学生となった莉(ツーイー)は、同級生の傑(陸毅)に憧れる。共産党員である傑は学生たちに労働の重要さをアピールし、莉も彼に同意したことで二人は急激に接近する。写真館を継いだ母茉(陳沖)に傑を紹介した莉だが、傑は茉をブルジョワと言う。やがて莉は傑と結婚するが、裕福に暮らしてきた彼女は労働者の家庭に馴染めない。我慢しきれなくなった莉は実家に戻るが、彼女を追って傑がやって来る。二人は写真館で生活し始めるが、莉が子どもを産めないことがわかり、二人は養女をとることにする。傑は花と名づけた娘を溺愛するが、夫の愛が娘に移ってしまったと思い込んだ莉は、いつか二人が男女の関係になってしまうのではないかと疑うようになり、それが悲劇を呼ぶ…。
 やがて中国が改革開放に向かおうとする80年代前半、両親を失った花(ツーイー)は祖母の茉に育てられて成長する。祖母に内緒で恋人の杜(リウイエ)と結婚した彼女だが、杜は遠くの大学に進学して離れ離れになってしまう。4年後、大学を卒業して上海にやって来た杜は、就職に失敗して日本の大学院に進学することを花に告げる。彼の言葉を信じて待つ花だったが、杜が日本からよこしたエアメールには、別れの言葉が記されていた。そのときすでに、花の胎内には彼との子どもが宿っていた。一度は堕胎を決意したのだが、結局産むことを決意する。やがて祖母の茉もこの世を去り、一人ぼっちになった彼女は雨の夜の路上で産気づく…。

 監督のホウ・ヨンさんは、張藝謀や田壮壮監督作品でカメラマンを務めてきた人だそうで、画面構成は非常に美しい~。特に第1話でのオールド上海の雰囲気は最高でした。ツーイーと陳沖がまとうドレスも美しいし。やっぱりツーイーはチャイナドレスがよく似合うよ。
 しかし、そんな華やかさと裏腹に、茉の少女期は波乱万丈である。華やかなスポットライトを浴び、ハリウッドのスターのような社長に愛されたはいいが、妊娠した途端に捨てられ、せっかく身を挺して守った実の子を愛することができずにかつていた世界に心を残す。幸運の赤いあざを額に持って生まれた娘の莉には幸せになってほしいと願いをかけても、彼女も、そして養女としてやってきたその娘の花もとことん男運に恵まれない。さらに莉の身には最大の悲劇が起こるわけで…。なんかそれ、身も蓋もないのでは?
しかし、そんな「男運のない三代の女性」話なのに、辛気くさいとも気が滅入るようにも思えなかったのは、ツーイーも陳沖も好演していたし、彼女たちが男に去られても幸せを手にしようという生き方をしていたからか?
 この映画ではチャイナ服からメガネ女子までいろんなツーイーが楽しめるのでお好きな方にはたまらないだろうけど、その七変化ぶりというか、どーよって感じのイケイケっぽさもなく、イヤミにならなかったのでこっちも安心して観られた。でも彼女を軽く超えていたのはやっぱり陳沖。『胡同のひまわり』の極めてフツーなお母さんから一転、非常に印象的な二人の母親を演じていて、特に第2話以降で演じる茉の壮年&老年期の演技はお見事。第2話ではツーイーがそのまま母親になったようなアンニュイさを漂わせ(そのせいかチャイナドレス姿も色っぽい)、第3話では家族に起こった悲しみをすべて背負い込んだ上で血のつながらない孫を大切に育てる優しさを見せる。これまで『ラストエンペラー』にハリウッドのB級アクション、そして『ツイン・ピークス』など、非常に広い範囲で彼女の演技を観てきたけど、この役以上に印象に残る役がない(苦笑)。トニーの妻を演じる《色、戒》がかなり楽しみになりましたよ。
 対する男どもは姜文さん、『七剣』の陸毅くん、そしてリウイエくんといいメンツを集めているんだが、どいつもこいつも…(-_-;)。特にリウイエくん、かわいい顔してそーゆー役柄かよ。あわねぇー(爆)。対照的に姜文さんのうさんくささすれすれにダンディなハリウッドスター気取りの社長はよかったわ。

原題:茉莉花開(Jasmine Women)
監督&脚本:侯 咏 原作:蘇 童 製作総指揮:田壮壮
出演:チャン・ツーイー ジョアン・チェン チアン・ウェン ルー・イー リウ・イエ

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