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2009年10月

花の生涯 梅蘭芳(2008/中国)

 今でこそ、ファンタジックな(こらこら!)歴史超大作ばっかり公開されている中国映画だが、そんな中にあっても、やっぱり陳凱歌(カイコー)や張藝謀、そして田壮壮たちが80年代から90年代に作ってきた作品こそが一番面白く、今観ても興味深いものだと思う。彼らは、大国でありながらもその政治的特殊性で沈黙を保ってきた改革開放前後中国で、決してプロパガンダではない、それぞれが持つセンスを充分に発揮した映画を作っては、世界から注目を浴びてきた。
 これらの3人の中でカイコーは、80年代末にNYの映画学校で教鞭をとったり、ロックバンドのPVを演出したりと積極的に欧米で活動し、それでいて天安門事件で揺れる故郷の動向に目をやっていた。その時期を経て作り上げられた『覇王別姫』は、オリエンタリズムを強調して欧米市場を意識しつつも、自らが生きてきた20世紀中国の激動を、レスリーの演じる京劇の女形に託してスクリーンに刻みつけた。艶やかな京劇の世界に魅入られながら、歴史の非情さ、人を愛することの悲しさや愚かさを感じ、何度観ても感動してしまう作品である。

 さて、こんな作品を撮ってしまったからには、やはり中国独特の演劇である京劇の伝説的な女形、梅蘭芳に彼の興味が行くのは必然的だったのだろう。実際に梅家の人々とかかわりを持っていた(fromパンフレットでのインタビュー)というカイコーが、当初スタンリー・クワンの監督で企画が進んでいた伝記の映画の方針変更により、この伝記映画『花の生涯 梅蘭芳』を作ることになったそうなのだが、はたしてそれはカイコーにとって吉だったのか、はたまた…?

 京劇の名門に生まれた梅蘭芳(字は[田宛]華)。幼い頃、大好きな伯父からもらった手紙には、「自分のような悲惨な目にあいたくなければ、京劇をやめろ。しかし、お前はやめられないだろう」というようなことが記されていた。叔父は西太后の誕生日のために舞台に立ったとき、喪に服していたため赤い服を着なかったという理由のために、紙の首枷をはめて城内を歩かされるという屈辱を受けたのであった。その出来事と伯父の言葉は、梅蘭芳の心の中に生涯強く印象づけられる。
 中華民国初期。京劇界の大物十三燕(王学[土斤])に師事した梅蘭芳(余少群)は人気の高い女形となっていた。ある晩、外国帰りの高級官僚、邱如白(孫紅雷)の講演を聞きに行った彼は、旧来の京劇を批判し、俳優は生身の人間を演じるべきという主張に感銘を受ける。彼は邱に自分の公演の招待券を渡す。最初は梅蘭芳を見くびっていた邱如白も、舞台に立つ彼の美しさとチャレンジングな姿勢に魅了されてしまい、地位も家も捨てて梅蘭芳を助けることを決意し、二人は義兄弟の契りを結ぶ。
 梅蘭芳の演技は輝きを増し、より大胆になっていく。師匠の十三燕はそれを快く思わず、梅蘭芳を押さえつけようとし、3日間で別々の劇場で上演し、客の入りを競おうと勝負を持ちかける。最初の日こそ、師匠対決との重圧で歌えなくなり、負けてしまった彼だが、師匠の十八番である軍記ものではなくオリジナルの現代悲劇を演目にすることで突破口を開き、2日連続の勝利を勝ち取る。それは自分が勝つと高をくくっていた十三燕のプライドを粉々にしたが、師匠の危機を知って終幕後すぐ駆けつけた梅蘭芳に、「負けることは恥ではない。恐れることが恥なのだ」と語って、彼に京劇の全てを託す。
 20年代後半。名実ともに京劇界のトップ俳優となった梅蘭芳(リヨン)は、邱如白と銀行家の「六爺」(英達)とともに、京劇のアピールのために、ニューヨーク公演を企画していた。そんなある日、梅蘭芳は京劇界トップの男役、孟小冬(ツーイー)と知り合う。「梅龍鎮」を演じて以来、二人の中は急速に接近していく。今の妻、福芝芳(陳紅)と愛のない結婚をしていた彼にとって、これはほとんど初めてといっていい恋だった。それは邱如白だけでなく、芝芳も知ることになる。二人の恋が梅蘭芳の役者生命に危機を及ぼすと考えた邱如白は、芝芳と小冬を逢わせて小冬に恋をあきらめさせた。しかし、それだけでなく、邱如白は刺客まで雇って小冬を殺すことまでも考える。渡米前に六爺が開いたパーティーにて、刺客は小冬に銃を向けるが、小冬の決心を知った邱如白が止める間もなく、刺客はなだれこんだ警官隊によって銃殺された。
 酷評と大恐慌の中で催されたNY公演は成功裏に終わった。しかし、あの刺客を雇ったのが邱如白だと梅蘭芳が知ってしまったため、義兄弟の仲は急速に冷えていく。そして日本が北京を占領した1937年、彼は京劇をやめることを決意し、邱如白とも別れて上海に向かう。
 それでも、邱如白は彼の艶やかな姿をみることを渇望した。さらに、同じことを考えていた男がもう一人いた。それは、あのパーティーに賓客として招かれていた日本軍の若き少佐、田中隆一(アンドーくん)だった…。

 同じ京劇テーマとはいえ、『覇王別姫』とは違い、今度は実在の人物を取り上げている。激動の時代をフィクションとして描いた前者より、こちらの方がより高いハードルが設定されてしまう。そのハードルを飛び越えられたかといえば…、うーむ、やっぱりだったか、と思った次第。
 時代的にはあの映画より少し前から始まるし、梅蘭芳が亡くなった後の文革の時代までは描かれなかったけど、それでもかぶるところは多いもんでね。
 梅蘭芳のものの考え方の根幹をなした亡き伯父の手紙を軸として、先進的な考えを持ち、旧来の形式を果敢に打ち破ろうとする梅蘭芳に激しく共鳴して彼を愛する(もちろん変な意味じゃないぞ)邱如白
が、梅蘭芳の演技に「孤独」を読み取り、それを大切に思うという、映画のテーマとなるべき部分の解釈は悪くないと思うけど(天才はやはり孤独なのだから)、それが十二分に発揮されていたかと言えば、そう思えなかったのが残念だったような気がする。邱如白を演じる孫紅雷が大熱演していたからこそ、そうなってしまったように思える。

 これはその他の演技者もしかりかな。リヨンは…、いくら北方系のノーブル(のっぺり、ではなく)な顔立ちだとはいえ、やっぱり化粧を施して舞うと「うーむ」だったし、というか壮年期になってから素顔の演技が多かっただけあって、これでいいのかなーと思ったのはいうまでもなく。
 ツーイーは、さすがにいつものイケイケな感じはなかったものの、大柄なリヨンと並ぶとどーしてもその華奢さ、小ささが強調されるぞ。『梅龍鎮』を演じた時こそ、背丈は揃えられていたけど、この役はツーイーでよかったのか?と思った次第。同じことはカイコー嫁が演じた福芝芳にもいいたい。
でも、ベテランの王学[土斤]さん、英達さんはやっぱりうまかったです。よかった。
 お久しぶりのアンドーくん、中国語台詞が多少アレでも、だいたいにおいて日本人若手俳優の中国語なんてこんなもんだから(某映画でのタマテツもそんなもんだった)、なんて思ったので寛大にみていたけど、日本語の台詞回しがこんなに下手でいいの?オマケにずいぶん痩せちゃって。いったい何があったの~?六平さんは軍人役が似合うので、特に文句はございません。しかし吉野中将、拉致監禁した梅蘭芳を「こんな女の腐ったの」呼ばわりしていたけど、我が国にも男性が女性を演じる歌舞伎があるんですけどどーよ(苦笑)。
 そして、期待の新星、余少群くん。さすが現役の京劇俳優だけあって、見応えありましたねー。素顔は好みが分かれそうだけど。彼、NHKと中国の電視台が合作したドラマ『蒼穹の昴』で、なんと主演を張るそうなので、これはちょっと楽しみかなーって気がしますよん。

 さて、陳凱歌の描いた梅蘭芳にはこんな感想を抱いたものなのだが、これがもし、当初の企画どおりスタンリーさんが監督していれば、きっと全然違うものになったんだろうなぁと思った。ああ、スタンリーさんに誰かまた企画持ってきてあげればいいのに。同テーマでの競作って珍しくないもんね、《葉問》と《一代宗師》みたいにさ。

英題:Forever Enthralled
監督:チェン・カイコー 製作:ハン・サンピン 脚本:コーリン・ヤン他 音楽:チャオ・チーピン 
出演:レオン・ライ ユイ・シャオチュン スン・ホンレイ チャン・ツーイー チェン・ホン ワン・シュエチー イン・ダー 安藤政信 六平直政

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政治と文化と、映画のボーダーレス

 どもー、東京国際ぶっ飛ばし中でーす。サーセン(←若者男子か>我)
 久々のエントリなのに、今回は愚痴系です。ああ、「怒らない・妬まない・愚痴らない」の、いわゆる「三毒追放(byカツマカズヨ)」には程遠いぜ…。とほほ。

 さて、この週末は本祭よりも、「東京・中国映画週間」に出陣した中華趣味な同志も数多かったみたいだけど、twitterでのつぶやきやいつも見ているblog記事などを拝見したところによると、『花木蘭(ムーラン)』のイベントは不手際ばっかりでフッテージ上映もあっという間、さらにゲストへの質疑応答もできずにたったの30分で終わっただとか、昨日のオープニングセレモニーの後に上映された『建国大業』は睡眠鑑賞していた人が多かったなど(今だから言っちゃうが、実はワタシも昨年の『愚公移山』、ちょっと睡眠鑑賞したよ…)、観ていなくてもおいおいと思ってしまうようなことが続発だったんですねー(苦笑)。やっぱり、行ってそれを体験すればよかったかしら、なんて顰蹙なことを言ったらあかんね。

 さて、『建国大業』といえば、先日の読売新聞国際欄「ワールドビュー」(ネットでは読めません)に、「スター頼み 愛国教育」という見出しで、『建国大業』が紹介されましたよ。
 以下、ちょっと要約しますね。

 建国60周年を記念し製作された愛国映画の『建国大業』が大ヒット。これまでの退屈な愛国映画とは違い、アンディやツーイーら中華圏を代表する約100人もの人気スターや著名監督を集めて出演させている。北京の映画館は80年代生まれ(以下「80後」)のホワイトカラーの女性グループやカップルであふれかえり、映画は彼ら若い世代を取り込むために、大スターのカメオ出演や大役にイケメン俳優を起用している。 従来のお堅い愛国映画にありがちだった威厳よりも人間味あふれる演出にも光を当てた。
 大ヒットに気をよくした映画会社は、2年後の共産党創立90周年にあわせ、「80後」の若手スターを集めた『建党大業』も企画している。若い世代の愛国教育への利用を狙っており、共産党筋は「利用できるものは何でも使う。興行的に成功すれば一石二鳥」と自信満々。
 政権にとっては、社会主義に変わって、愛国・愛党のナショナリズムが統治イデオロギーとなっている。しかし、社会の不公正が広がる中では、スターたちにとっても、新たなイデオロギーを支え続ける役は荷が重いに違いない。

 この映画、当初トニーにも出演オファーが来たらしい。受けなくて正解だったと思うよー。
いくら彼がざっくり分けると「中国人」であっても、これは出演するにはどうか…って感じだったんじゃないかな。実際、これを観に行った友人も、「政治映画は疲れます…(笑)」とメールしてくれましたもの。
 映画好きとしての考えは、映画はその国のイデオロギーとは切り離して、独立したエンターテインメントとして楽しむのはいうまでもないことということにつきる。だけど、共産党側からはっきりそう言われてしまうと、頭痛がするほど悩んでしまい、「おーい中国共産党!映画をプロパガンダに利用するなよー」といいたい。この露骨さって、いったいどーよ。
 脇に逸れるけど、かつて韓流ブームが起きた時、アンチの人たちはかの国の政治姿勢をネタにそれを攻撃したものだけど、韓流に馴染めない身としても、そういう攻撃はどうなんだ?と思ったことがある。しかし、たった1本のドラマのせいで、それまで堅実に評価されてきた韓国映画の価値が下がり(どーでもいい映画の輸入も増えたからね)、今やあのブームはなんだったのかという状態だもんな。捏造と言われても、ブームって恐ろしいもんだ。

 話を元に戻して、政治と文化はきっちり分けられて然るべきである。それをわかっていたのが、かつての張藝謀や陳凱歌のような「第五世代」の監督たちだったのではないのだろうか。15年から20年くらい前だと、それがたとえ政権が良しとしないものであっても、彼らは自分たちが描きたいものを映画にぶちこみ、政府にとがめられても作品を作っていく後進たちの良い手本となっていったのだろうから。
 でも、今大陸での映画の状況は、その頃とはすっかり変わってしまった。「第五世代」もエンタメ作品を作り出すようになり、その作品からは強烈なメッセージが伝わりにくくなってきた気がする。そして、映画が人気を呼ぶに連れ、大きな権力がそれを利用するようになる…というのは、今までの歴史にもあったような気がするし、「政権」を「テレビ局」に変えれば、日本でこれが当てはまるような気がしてならない…ってこれはちょっと言い過ぎね。スマン。政治と一緒にしちゃいけないけど、日本のマスコミの堕ちっぷりも、どうしようもないと思うからな。

 そういう流れがあるから、共産党が映画をプロパガンダとして利用することとあわせ、そーゆー映画にアンディや成龍さんたち香港明星が出てしまうのにもイラッとさせられた次第。
 このことについて、大陸から来た方はどう思っているのかなと思い、中国語教室に新聞記事のコピーを持って行って、我的老師にも呼んでもらってしばらく討論した。こんな感じ。

 老師説:「ああ、こんなのは珍しくないですよ。共産党は昔からメディアを駆使してプロパガンダをやってきましたからね。でも、今わざわざ『愛国教育』を謳っても、普通の人たちはしらけるばかりですよ。こういうことをやりだしたってことは、今の国の状況に党が危機感を感じているのかもしれません」
 我説:「でも老師、成龍や華仔は香港返還前から中国よりの発言をしてきていて、最近それがますます強くなっているような気がするんですよ。それもあってこの映画に出たんじゃないかって気もするんですが?」
 老師:「いや、それはないでしょう。きっとお金の問題ですよ。たとえ本人が共産党を支持していなくても、お金が絡んでしまえば、やっぱりそうなっちゃいますよ。中国人ってそうですから」
 我:「うう、やっぱり『世道就是銭(世の中は金だ)』ですか…(笑)。ところで、愛国ってすなわち政府を愛するってことにつながるんじゃないかと思うんですが、どうですか?」
 老師:「それなら、香港映画はどうですか?武侠片では昔から愛国が叫ばれてきたじゃないですか?あれこそが愛国主義ですよ。中国での愛国は愛政府ではないですよ」
 我:「うーん…。日本でも以前の政府が教育に愛国心を盛り込もうとしてましたけど、どーも愛国心と聞くと嫌な気分になっちゃうんですよ。もし戦争になったら、若者がまた『国のために死ねるか?』と強要されそうで、それを愛国心というのならイヤだなと。あ、ワタシはもちろん日本好きですよ」
 老師:「中国人における愛国心というのは、実際のところ、中国のここがよくない、それなら日本の方がずっといいっていうことかな」
 我:「(それはほんとに愛国心なのか?)ふーむ。やっぱり違うみたいですね、微妙に」

 (注・意見には個人差があります。このことだけに関するコメントはお避け下さい)

 この後は、ちょっと政治的にヤバイ話へと展開していったので以下省略(反中いちげんさんネットワーカーさんたちに絡まれたくないので)。
 とりとめのない会話だけど、老師が中国を離れてかなり経つこともあって、彼は結構冷静にかの国を見つめていることがわかる。お金のためと言い切られると身も蓋もないけど、それも致し方ないのかもしれないのかな、という気もした。
 いずれにしろ、ちょっとほとぼりが冷めたら、実物を観てみたい気がする。たとえプロパガンダであっても、作品としての出来も気になるからね。
 
 さて、この流れでもうひとつ。毎度お馴染みの河北新報映画祭レポートにあった、アジアの風ディレクター石坂健治さんのコメント。
 個人的に高い信頼を持っている、映画評論家齋藤敦子さんによる国際映画祭レポート。齋藤さん自身が欧州映画と同じくらいアジア映画を重要視しているようなので、各映画祭の開催時期にはこのコラムを読むのを楽しみにしている。
 昨年に続いて登場した石坂さんのお得意は中東&中央アジア地域だそうで、着任3年目の今年のラインナップは見事に“石坂カラー”に染められたなーと、ちょっとシニカルに考えちゃうのだけど、それでも決して東アジア圏を無視しているわけではなく、むしろ同じ中華圏や東南アジアとのボーダーレス化に注目してほしいといっているようにとった。
 まぁ、それが本来の映画祭のあり方であるんだろうな、とは思うんだけど、近年映画祭で上映された作品の一般上映のチャンスがますます減っているので、その点ではちょい不満かな。一般の配給会社さんに期待したくても、すぐ倒産したなんだりで不安定なところがあるからな…。やっぱり、今後は映画祭も含めて、現地で気になると思ったらすぐ観ないことには、二度と観られるチャンスがなくなるってことなのだろうか。

 今週末でいよいよ映画祭もクロージングだけど、アン・ホイ姐さんの天水圍二部作TVシリーズ、マレーシア&香港合作の『心の魔』、そして一見中国産だが、実はしっかり香港だったという『カンフーサイボーグ(えーっ、広東語版上映だったの!)』の評判がよかったとのことで、それはなにより。これらの作品が必ずしも日本で一般上映されるとは限らないのが残念だけど、ワタシもちゃんと観る機会を作らなきゃな、と思った次第。
 でも、コンペの『台北に舞う雪』はすでに日本公開決定なのね…。やっぱり日本資本が入ると違うよなー。*タメイキ*

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やっぱりアーロン父子の声で聴いてみたいぞ、テンマ父子。

 どーもー、東京国際ぶっ飛ばし中でーす。
ぶっ飛ばしたついでにっていっちゃなんだけど、『アトム』観てきましたー。

 …で、なんでそれをこっちに書く必要があるんだって?
そりゃーアナタ、ワタシが香港映画の次の次の次の次に愛しているのが手塚治虫御大のマンガだからさ、ってーわけじゃなくて、このアニメ映画の製作を手掛けているのが、香港のイマジというアニメスタジオだからなのでアルのよ。ネタもないことだし、無理やりここに書きます(爆)。
 ちなみに、香港では全米と同じで10月23日開始(リンク先の「WORLD RELEASE DATE」参照のこと)。 最近(というか今日?)、香港プレミアが行われたようで、手塚眞さんのblogでその様子が紹介されてました。

 で、感想。
 ま、基本的に欧米の方が作った作品だし(99年にコロンビアが映画化権を得てから紆余曲折がかなりあったとか)、アトムならすでに浦沢直樹さんが『PLUTO』という優れたバリエーションを出してくださっているので、世間一般に言われるほど違和感はなかったし、これもまたインスパイア作品ではあるな、と思った次第。
 少なくともね、ここしばらく日本で実写映像化された他の御大作品よりは、ずーっと愛とリスペクトを感じさせてくれる出来だよ。『どろろ』(リンク先は観た時の感想)はいくら程小東さんを呼んでアクションで頑張ったとしても、なぜどろろが男装した子供じゃなくて男装の女性じゃなきゃいけないんだろうと思ったし、現在香港で公開中の『MW』(リンク先同上)も、原作では重要な位置を占めていた主人公二人の濃密な同性愛関係という設定をばっさりカットして、ただのアクション映画にされてしまったのにも思いっきり頭を抱えてしまったものー。

 そういう悪しき前例をこれまで観てきたこともあって、それと比べたらかなりいいと思ったし、この作品には眞さん(日本語版では御大がモデルのキャラの声優をしていたわ)もアドバイザーとしてあれこれ助言していたというので、そういうところでもうちょっと評価されてもいいんじゃないかな、と思った次第。原作と違う!と言ったら、果てしなく文句つけまくることになるからね。それでも文句つけたいところがあるんだが(例えば、アトムと仲良くなる人間の女の子コーラがかわいくないとか、ってこれは個人的好みか)、これまたきりがなくなるからやめておこう。

 さて、この映画には香港らしさがあまりないので、まーアニメだからそんなものよねと思ったけど、巨大なゴミ捨て場が広がる地上のダウンタウンに漢字があふれていて、これは香港、というより華人街をモデルにしたのかなー、なんて観ていた。

 米国版ではフレディ・ハイモアくん(fromチャーリーとチョコレート工場)が声をあてているからか、オリジナルより大人びたアトムはどこかフレディくん似。フレディくんのイメージが「薄幸」なので(苦笑)、ピッタリといえばピッタリか。日本語版のウエトアヤ小姐…。んー、棒読みじゃないだけいいが、やっぱり違う気がする。香港版のイアンくん(ン・キントー)は、どんなふうに演じてくれるんだろうか?声変わりしたのかな?
 役所さんがあてていた天馬博士(英語名ビル・テンマ。…)。絵はやっぱり米国版キャストのニコラス・ケイジにちょっと似ているとは思ったのだが、役所さんって声優やってもそーゆー喋り方なんですか?まったくぅ(いや、これでも好きですが)。
 で、香港版テンマさんは、《父子》再び!のアーロン。眞さん、先に挙げたblog記事でアーロンを誉めてますねぇ♪でもアーロンって、確かに役所さんよりは若いけど、かといってニコラス・ケイジよりずっと若いわけではない。ああ見えても既に40代のはず(笑)。

 そんなわけで、アーロン「父子」による香港版アトムが非常に観たいんだが、今度渡港したら、吹替入りのDVDでも買うべき?でもそこまで思い入れは…(苦笑)。

※10/19追記。
東方日報にプレミア記事があったので、写真を。

Aaron_ian

…えあろんお父さん、上に着ているのはTシャツ?それともベスト?
(記事によるとこれはTシャツらしい。噂になっている熊黛林小姐とのことを聞かれていた様子)
あと、眼鏡が黒ぶちなのは、御大リスペクトだよね?
それならベレー帽もかぶってほしいぞ、お父さん。

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東京国際、今年は不参加だけれども。

 さて、明日からいよいよ東京国際映画祭ですね。
 今年は田舎もんにとって悲劇的に日程が合わないという事情により、ワタシは6年ぶりに不参加しますが、参加される皆さんは楽しんできてくださいね。

 …しかし、ここ5年ほど国際に参加していて思ったことなんだが、盛り上げるべきところに注目させず、ほっといても盛り上がるところばかりを大々的に取り上げてしまうってのはいかがなものかと。そりゃスポンサーの意向だったり、映画祭の中心が配給系企業になってしまっていたり、通産省と外務省と文化庁というスタンスがバラバラな省庁がそれぞれ関わっていることが原因なのかな、いきなり「エコ」とか「コフェスタ」とか言い出したのも、いろんな人に世界の映画を観てもらうことより海外にバンバン売って利益を得たいってのが先立っているのかな、なんて思っちゃう次第。これは、2年前に河北新報のサイトでお馴染の齋藤敦子さんが書かれていたことに思いっきり同意したからなんだけど。

 あと、今だから言っちゃうけど、昔っから妙に政治的?な影も見えていたのが気になってた。それも中国の(爆)。
 カンヌやヴェネチアでもそうだったけど、どーしてあの国は映画祭のコンペで台湾作品が並んだりするとすぐイチャモンつけたり駄々をこねて出品作品を引き揚げちゃうんだか、そっちこそ文化ってもんをわかってないんじゃない?と思ったこともあった。それでもってなんで、最近はプロパガンダっぽい映画を持ってくるのかねー。これは昨年、初めて東京・中国映画週間に参加した時に、全体的に政治的っぽいにおいを感じてしまったから、そんなふうに思っただけ。多分思い違いなのかもしれないけどね。
 
 しかし、香港映画があまり来なかったってのは、FREEMANさんのblog記事にあった、実は今香港映画界も落日の状況にあるという事情ゆえなのだろうか。それであっても、あまりにも淋しすぎるんじゃないだろうか…。
 昔はよかった、なんて言って懐かしんじゃいけないんだけど、それだからこそ、こっちが香港映画の実情をしっかり押さえなきゃいけないのかな、と思うワタシであった。
 いや、明星の来日でキャーキャー言うのも、それはそれで悪くないんだけどね。
 今年はどなたかグリーンカーペット、ご覧になられますかー?
 中華関係で歩くのは、ボーリン君たち『台北に舞う雪』チームのみらしいんだけど(from もにかるさんのblog記事)、全体的にも観てみたいなぁと思ったので。

 実は国際に行かれない代わりに、こっちで未鑑賞の香港映画を観まくって、“ひとりみちのく香港映画祭”でもやろうかと思ったんだけど、公私共に忙しくて観る暇がありましぇん。とりあえず《葉問》VCDのディスク1を観たっきりですよ。
 ああ、暇プリーズ!

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クリーン(2004/フランス・イギリス・カナダ)

 マギーと彼女の元ダンこと、オリヴィエ・アサイヤスの出会いとなった(そして二人の運命を決めた)映画『イルマ・ヴェップ』を観たとき、いったいなんなんだこれは!と唖然茫然としたことを今でも覚えている。

 人気女優マギーが香港からフランスに招かれ、ベテラン監督のもとで女盗賊を演じる映画の撮影をするけれど、監督はイカレてるし、そのせいで撮影は全然進まないし、英語は通じないし、彼女についたフランス人スタイリスト(だったと思ったな)はレズビアンで当然の如く迫られるし、取材に来た新聞記者は香港映画を誤解(!)してるし、その状況に戸惑った彼女もお気に入りのロックを聞きまくってハイになった挙句、映画の衣装を着込んで、ホテルの別室から宿泊客のものを盗み出してしまうの至るなどと、なんともカオスな展開が繰り広げられた。そして出来上がった作品がまぁ、ノイズにあふれたアヴァンギャルド丸出しのもので、この後マギーがアサイヤスと結婚したと聞いたときには、アサイヤスはこのときにすでにマギーらぶらぶだったんだなーと思ったものであった。それを思えば、件の映画がああなったのには、大いに納得したもんだったわよ。

 さて、97年の終わりごろに彼らの結婚が伝えられ、それから『花様年華』を経て'03年ごろに、この二人の離婚を知ったわけだったのだが、当時は何のかのいいつつ愛は醒めるもんなのね、とありきたりのことをつぶやいてみた記憶がある。しかし、翌年のカンヌにこの『クリーン』が出品され、そこで彼が別れてもマギーを起用して映画を撮ったことを知って、さらに何だかわけがわからなくなった。え、それってどーゆーこと?別れてもまだ好きなんかい、アサイヤスよ!とつっこんだっけなぁ。
 この映画も日本では特別上映&テレビでしか観ることができず、今後見る機会はないのね、なんて思っていたら、以前も書いた通り今年の春にアサイヤスの新作『夏時間の庭』が評判を呼んだことから公開が決まったことを知った。ちょうど上京する機会があったので、このチャンスを逃がすわけにはいかんと観に行った次第。

 エミリー・ワン(マギー)はパリのケーブルTV局で人気を博した歌手志望のビデオジョッキーだったが、ロンドンでカナダ人ロックスターのリー・ハウザーと出会い結婚した。二人の間にできた息子ジェイ(ジェームズ・デニス)をバンクーバーのリーの実家に預けて、各地のライヴハウスを転々としていたが、行き詰まった二人はドラッグで身を持ち崩していた。
 カナダ・ハミルトン。メトリックがステージに立つライヴで、彼らはレコード会社と交渉にでるが、話がこじれてしまう。この件で怒ったエミリーはリーと激しく口論し、泊まっていたホテルを飛び出してしまうが、翌朝戻ってみると、リーがホテルで死んでいた。死因はドラッグの過剰摂取。彼女もまたヘロインを摂取していたため、すぐさま警察に逮捕されてしまい、半年間服役することになる。
 出所後、エミリーはリーの代理人となっている父親のアルブレヒト(ニック・ノルティ)と会う。彼の妻ローズも含め、世間では「エミリーがリーを殺した」と非難する人間が多かったが、アルブレヒトは彼女の立場を思いやり、その思いを受け止めてくれていた。しかし、エミリーがジェイに会うことを願うと、彼はそれを拒むのであった。

 ジェイと再会するには、今までの自堕落な生活を改め、働かなくてはいけない。そう思ったエミリーは、青春を過ごしたパリへと渡る。叔父に紹介してもらった中華料理店で働きながら、服役中に出会ったミュージシャンと共同で作った作品で歌手デビューをつかもうと試みる。しかし、頼りにしていたリーの友人は当てにならず、元マッシブ・アタックのトリッキーに自分のデモを聴いてもらうチャンスを逸する。薬物治療の副作用に苦しみながら働く彼女を、中華料理店の従業員は「こいつヤク中だしな」と蔑む。その仕事もやめてしまった彼女は、旧友たちとつるむ自堕落な生活に逆戻りするが、かつての仲間がやはりオーバードーズで命を落とした姿を見てはっと我に返る。

 エミリーはVJ時代の彼女に憧れていたというイレーヌ(ジャンヌ・パリバール)のもとに行き、仕事を紹介してもらう。それはプランタンのブティックで東洋人観光客の相手をするという、彼女にとっては苦手なものであったが、ジェイに会うには仕方がないと考え、引き受けることにする。さらにもう一人の旧友エレナ(ベアトリス・ダル)の家に住むことにもなり、彼女は生まれ変わろうと努力する。
 そんな時、妻の治療のために、アルブレヒトがジェイを連れてロンドンにやってきた。彼はエミリーとジェイを会わせることにする。エミリーがロンドンに行くことを拒んだため、週末を使って二人でパリに行くことになるが、ローズは未だにエミリーを憎んでおり、彼女に「ママがパパを殺した」と教えられたジェイもまた、エミリーに憎しみを抱いていた…。
 
 観た後にまず一言。
「ああ、観てよかった。意外とまともな話だった…(苦笑)」
 いくらこのコンビの前作が、あんだけひどい(こらこら)話だったり、アサイヤスがここ数年で撮ってきた作品に日本のアングラカルチャーやら香港ノワール的モチーフやらを取り入れたりしてきても(ちなみにまだ両作品とも観れていない。てか観る機会あるのか?)彼は決して自分の趣味に走りまくって語る物語を置き去りにする“フランスのクエタラ”ではないというわけよね。『夏時間』みたいな作品も撮れるわけだし。
 ええ、まぁ、それでいても、いくら夫婦関係をやめたにしては、これはやっぱり彼のマギーらぶらぶっぷりが相変わらず前面に出ている映画ではあるし、あまりにもらぶらぶっぷりがすごくて、物語がよくわからんっていう批判(これは藤原帰一さんがAERAで書いていたっけ)もよくわかる。さらにいろんなところでツッコミたくもなるし、つっこんでいけばきりがなくなる。

 でも、これが何だか捨てがたいなぁと感じたのは、彼女演じるエミリーがどん底に落ちようとも生きることに必死であることに共感を持ったことと、現代の人間がまっとうに生きるには、やっぱり働かなきゃダメであるという、どうにもこの映画のテーマにそぐわない(苦笑)ことを感じてしまったことだったりするのである。前者はとりあえずおいといて、この後者の考えをちょっとだけ。
 冒頭、リーと暮らしてヘロインでデロデロになっている彼女は、夫を成功させたい一心で、周りに噛みついていく。これは彼を愛しながらも、一方で依存心が強いんじゃないかと思わせられないこともない。そういうように見られるから、エミリーがリーを堕落させたと誤解されるのも納得できる。だけど、彼女は決してそういうつもりだったわけじゃない。堕落してしまったからこそ、依存心も高まるんじゃないかな。これって某○りPのことにも微妙に通じるものがある。やっぱりダンナは当てにしちゃいけないのよ(怒られそうなことを平気で書いてすんません)。
 リーを失ってジェイを手元に置きたい、なんてエミリーは例によって調子のいいことを考えるけど、それを拒まれたらやはり全力で自分がまっとうになるしかない。そして、まっとうになるために、自分の失ったものを取り戻すには、やっぱり自分のために働かなきゃいけない。だから、彼女はどんなに嫌なことでやろうとする。

 だけど…、それでいても、ジェイとともに自分の願いであった歌うことも諦められない。ジェイと会うため、そして自分の生活の安定のために、サンフランシスコでのレコーディングを諦める彼女だが、ジェイと出会い、SFで彼を産んだということがきっかけで、歌への渇望も高まる。それが成功に結びつけるかどうかはわからないけど、結局彼女は働くことよりも、歌うことに自分を賭ける。
 これやっぱり失敗に終わってしまう可能性だって、もちろんあるのだろう。それでも、彼女はもう昔の自堕落な彼女じゃない。もしデビューできなくても、きっと諦めずに何度も挑戦するかもしれない。その間には働いて、夢に賭ける準備期間にすることだってできる。そんなふうにも読み取れる。子供も夢も、なんていう欲望は、ホントに都合のいいことかもしれないけど、SFで迎えるラストシーンで、すっきりと額を出したエミリーがスタジオのテラスから、ベイエリアの遠景を見つめる姿には、そんな欲望も飛び越しちゃって、自分のやりたいことをやりきって未来を見つめるような思いがあるようで、何だか神々しさまで感じてしまった…ってこんなことを書いてるアタシもまた、マギーに感情移入しすぎ?でも、カンヌで女優賞を獲ったのは、案外こんなふうな理由があったのかもね(笑)。

 たとえステロタイプな役柄をふられたとしても、そこからもはみ出してしまうのがマギーの魅力だと思うことがある。中華圏から欧米に出た女優の中でも、マギーは突出したものを持っていて、いくらツーイーやコン・リーがハリウッドで頑張っても、やっぱり彼女にはかなわない。あ、ミシェル姐もまた別格。
 それゆえに、監督たちは彼女をミューズとして崇め、彼女をイマジネーションの源とするのかしら。思えば、アサイヤスだけじゃなく、楊凡も『ストーリー・ローズ』で彼女の複雑さを引き出していたわけだし、王家衛作品での彼女は言わずもがな。最近のマギーはそんな作品ばかりにでているので、もーちょっと出てほしいとは思うけど、彼女もマイペースにやってるからね。ま、しょうがないといえばしょうがないか。
 そして、アサイヤスの次にマギーにやられた監督は…、そうか、オマエか、クエタラか!この秋公開のイングローリアスなんとか(題名長すぎ!)では泣く泣く出番がカットされたというけど、転んでもただで起きなさそうなクエタラだから、次回作で絶対マギーを大フューチャーしてくるかもね(嘘)。

 と、アサイヤスに負けじおとらじのマギーらぶらぶ状態であれこれ書いてきたが、最後にこれだけ言わせてくれ。 
 いくらマギーにらぶらぶだとはいえ、アサイヤスよ、彼女に歌わせるってーのはもーちょっと考え(以下略)。

監督&脚本:オリヴィエ・アサイヤス 撮影:エリック・ゴーティエ 編集:リュック・バルニエ 音楽:ブライアン・イーノ他
出演:マギー・チャン ニック・ノルティ ベアトリス・ダル ジャンヌ・バリバール ジェームズ・デニス

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どん底から復活へ。女は強くあらねば。

どん底から復活へ。女は強くあらねば。
イメージフォーラムの外にあったポスター。…雨が降っていたからね。

というわけで『クリーン』観てきました。アサイヤスのことだから、マギーらぶらぶで訳わかんなくなってるんじゃないかと思っていたんだが、意外とマトモだった(こらこら)。
感想はまた改めて。

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