この映画をこれから観る人にお願いしたいことがある。…どうか、この映画について、この国で伝えられている一切のものごとを含めて、周囲の雑音に耳をふさいでほしい。できれば、前情報を入れずに、観に行ってほしい。いや、それでも『花様年華』か『欲望の翼』は観ておいてほしい。そして、自分の目で観て、心で感じて、この映画への思いをかみ締めてほしい。…そう、観ていない方には申し訳ないけど、この感想も本当は読んで欲しくない、またこの感想次第で観に行くかどうかも決めて欲しくない。ネタばれは当然のようにしているので。
1966年、シンガポール。新聞記者のチャウ(トニー)は賭博場で知り合った女(コン・リー)と別れ、香港へ戻ってくる。当時の香港は暴動と騒乱に満ちていた。彼は湾仔の東方酒店に投宿し、生活の糧にと小説を書き始める。その小説の名は『2046』…その番号は、かつて彼が恋した夫ある女性(マギー)との思い出に満ちたルームナンバーだった。
“2046”…これは香港の1国2制度制が終わる年号と偶然にも一致しているが、この映画には関係ない。そして、この映画はワタシもここで度々書いてきたような、SF映画などでは決してない。王家衛の映画を観たことがある人間なら、必ずデジャヴュに捕らわれてしまうこと間違いない映画であり、また仕掛け罠の多い映画だ。それは、王家衛映画にとって2人目の日本人俳優としてあの方、-いや、もう彼の名をぼかす必要はないだろう、木村拓哉が起用されたと報道されたときから、我々はすでに家衛のトラップにはめられていたような気がする。彼の存在については、また後で書こう。
チャウは昔なじみのルル(カリーナ)と再会する。彼女は死んでしまった昔の恋人の思いに浸り、彼によく似た面影の青年(張震)と付き合っていた。しかし、彼女は2046号室でその恋人に刺されてしまう。また、東方酒店の王支配人の二人の娘のうち長女のジンウェン(フェイ、ちなみに次女ジエウェンはトン・ジエが演じている)は香港の日本企業に勤める日本人青年(木村)と恋をするが、父親に反対され、入院してしまう。チャウは、自分が見てきた人々をモデルとし、舞台を未来世界“2046”行きの長距離鉄道に設定し、長い旅の果てにアテンダントの女性アンドロイドに恋してしまう男たちの姿を書き付ける。まるで、自分の満たされない気持ちを成就させようかとするように…。
この映画、モチーフこそは『花様年華』であるが、正確に言えば、その続編ではない。それは、『花様年華』でマギーが演じた女性の名前が『欲望の翼』と同じ「スー・リーチェン」であっても、『花様年華』が『欲望の翼』の続編でないのと同じ意味だ。その『欲望の翼』を始め、主たる王家衛作品のセルフオマージュはそこかしこに配されている。当然だがそれこそ、デジャヴュを引き起こす要因となっている。カリーナ演じる“ルル”または“ミミ”という名前、そして彼女が恋する若い男に張震を配したのは、『ブエノスアイレス』で王家衛が語った、「張震は若いころのレスリーに似ている」というコメント…。その場に、いや、もうこの世にもいないレスリーの姿は、確かにこの映画の中にも見えた。…そのせいだろうか、この映画での張震の存在が、はかないものに感じたのは。
フェイといえば未だに『恋する惑星』なのだろうが、さすがにあの映画からいくつも歳を重ねたこともあり、素頓狂でエキセントリックで自由奔放な女の子フェイのイメージはこの映画にはない。ルルや後から登場するバイ・リン(ツーイー)のような夜の蝶たちとは対照的な、地味な庶民であるけど意思をしっかり秘めた女性を印象的に演じていた。木村くん演じる日本人青年と向かい合うときの表情がよかった。
やがてチャウは2047号室から隣室を窺うようになる。隣に越してきたのは若いホステス、バイ・リン。小説や雑文業を続けるうちに自堕落になり、夜な夜な女を部屋に連れ込むようになったチャウは1967年のクリスマスイブに彼女を誘い、肉体関係を結ぶ。激しいセックスを繰り返し、互いに果てた後にチャウは彼女に金を払う。彼にとってバイ・リンは肉体だけの女であった。しかし、バイ・リンは本気でチャウを愛するようになっていた。互いの思惑の違いに気づいたとき、二人の関係は終わった…。
ツーイー、今までの小娘感はまだまだ残っているものの、これまで観てきた彼女の映画でのイメージからするとちょっと成長したかな?といった感じの存在だったような気がする。たぶん、張藝謀みたいならぶらぶ邪念(そう、萌え~じゃないよ。大笑)が家衛にはなかったんじゃないのかな(大爆発)。
そういえば、王家衛映画で直接セックスを描写したのは『ブエノスアイレス』以来じゃないっすか?あのシーンもものすごかったが、今回も別の意味で衝撃的だぞ。…個人的には久々にトニーの濃厚な絡みが見られて嬉しいと言い切りますが。(おいおい!)
ジンウェンが酒店に戻ってきた。彼女はまだ青年が忘れられない。そこでチャウは彼女と青年の助け舟を買って出る。彼女に仕事を紹介したり、武侠小説の競作をしたりと、親しく付き合っていくうちにチャウはジンウェンに引かれていく。彼女と青年をモデルにした小説『2047』を書き始めたチャウだが、いつの間にか小説の主人公(当然木村くん)に自分を投影していくことになる…。
「キミニオシエタイヒミツガアルンダ。オレトイッショニイカナイカ…」
アンドロイドに恋した主人公は何かとこの言葉を繰り返す。そして、秘密を話そうとする段に及んではどうしても言葉に詰まってしまう。そして、堂々巡りを繰り返しながらも人間ではない彼女を愛し続ける。その彼女も、後になって初めて自分にささやきかけてくれた人を愛していることに気づく。
愛することへの思い、いくら愛しても満たされない気持ち、その気持ちを埋めようと欲望のまま事に及んでみても、それでもどうにもならない。それは1960年代でも、未来世界でも、そして2004年でも変わらない。たとえ相手が人間でなくても、思いの届かない相手でも同じ。そして、その愛は失ってから初めて気づくということも…。
王家衛映画の主題はいつでも愛の喪失。彼の映画では60年代にフィリピンで命を落とした青年も、90年代にアルゼンチンに行ったゲイの青年も同じ経験をしている。それは普遍的な主題である。その満たされない気持ちを抱いて生きていくのは彼らだけでなく、ワタシたちだって同じだ。そんなところが琴線に触れてしまうんだろうな、王家衛映画にはまるって言う人は。ま、はまらない人は何ゆーとるんじゃって一笑に付すんだろーけど。
で、木村君のことをそろそろ書こうと思うけど、彼は、もしかして上記の台詞を言わせたいがために起用されたんじゃないかな、という気がするんだ。実力派揃いの他のキャストに比べたらやっぱ…って思うところはいっぱいあるけど、思ったほど浮いてる感がなかったのが幸いだったような気がする。ある種のアクティブファクターとしての起用は失敗じゃなかっただろう。…ま、私見&彼と同年代の人間としてはほかに言いたいことはあるんだが、それはまた落ち着いてから書こう。
調子こいて書いていたら、ついつい長くなってしまったが、この映画は今までの家衛映画の集大成的なところがある。チャウは相変わらず満たされないまま彷徨うのかもしれないが、彼の涙にぬれた記憶を振り返ることは、決して後ろ向きになることではないはずだ。満たされない思いが新たな恋で埋まることがなくても、やはり、生きていかなければならないのだろうから。そして、生きている限り、トニーも映画に出続け、家衛も自分の思いを映画に綴っていくんだろうな。相変わらず即興でね(苦笑)。
とりあえず、こんなところで許してくださいませ。
監督&脚本:ウォン・カーウァイ 撮影:クリストファー・ドイル ライ・イウファイ クワン・プンリョン 美術&編集:ウィリアム・チャン 音楽:ポール・ラーベン 梅林 茂
出演:トニー・レオン フェイ・ウォン チャン・ツーイー コン・リー カリーナ・ラウ チャン・チェン 木村拓哉 トン・ジエ トンチャイ“バード”マッキンタイア マギー・チャン
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